高島嘉右衛門列伝3 〜(つづき5) | 貴照良日 「貴照(きしょう)」のブログ

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コーチング歴34年。当初は、熊本中心地のカフェで鑑定。下通り,上通り,新市街に交通センター(現:サクラマチ)のcafeで待ち合わせをしていた時代。熊本を拠点とし、国内外の方のリモートも行ってます。鑑定50,000人以上になり、その独自流の統計から「貴照鑑定」を確立

榊原 利彦様Facebook投稿より (シェアご了承済)

6月1日 17:54  · 

《つづき》

高島嘉右衛門が自首までしたのに、何故、終身刑になったのか?

実は、裁判をするにも、肝心の両替先の外国人は、既に日本を離れていた為に検証出来ず、全ての罪を嘉右衛門が被る事になった。

奉行所は

「その異人が日本に来たら聴取してやるから、それまで、嘉右衛門。お前は獄からは出せない」と。

もちろん、クニフラーや、ベイゼン達は、日本に来たら面倒な事を知っているので、再来日をするはずも無く。

それを知っていて、嘉右衛門1人に罪を被せたのだった。

嘉右衛門が送られた獄は、《伝馬獄》(でんまごく)

獄の中でも、最も厳しく「生きて出られぬ伝馬獄」と称される、極悪人や死刑になる罪人ばかり集められた、中で何が起きても分からない獄だった。

嘉右衛門は伝馬獄に送られると、先ず、老名主、その仲間達、看守などに金を配った。

「地獄の沙汰も金次第」

そう言って、鍋島藩の田中御家老が配るお金を手配してくれていたのだったが、もう1人、嘉右衛門の獄にお金を送ってくれていた人物がいる。

戸田様である。

戸田家は大垣藩の藩主であり、高島嘉右衛門の姉が大垣藩に奉公に行っていた時、戸田様との間に嫡男が産まれている。

戸田家の嫡子の叔父にあたる嘉右衛門の事を案じて、付け届け用のお金を送ってくれていた。

こうして、獄に居ながらも、鍋島藩と大垣藩からの仕送りで身の安全を確保出来たのでした。

しかし、嘉右衛門は終身刑の身。

果てどない人生の暗闇の中、何故か幼少期に習った『四書五経』が降って来た。

『四書五経』を8つの年で読み解き、暗記してしまう嘉右衛門は「神童」や「天才」と巷ではちょっとした有名人。

この四書五経に易経が記されており、安政の大地震も、この易経で見事的中させたのである。

不思議なのは、安政の大地震の前からにも自宅の天井から、何処からともなく四書五経が落ちて来た。

「こ、これは。私が吉田松陰先生に渡した物だ………!」

嘉右衛門の生家は、佐久間象山の《五月塾》の斜向かいで、その塾に吉田松陰は通っていた。

その後、松下村塾になって行くわけだが、松陰先生が捕まる少し前の事。

四十七士の墓の前で松陰と嘉右衛門は偶然にも会っている。

その時、嘉右衛門は松陰の末路を心配し「何かの時に、役立つやも知れません。これを、お待ち下さい」と、四書五経を渡していたのでした。

嘉右衛門が入れられた獄は、吉田松陰が投獄された部屋と同じで、「取り上げられまい」と隠していた物が落ちて来たのでした。

「これは、きっと松陰先生が「諦めるな」と私に言っているに違いない」

これをキッカケに、嘉右衛門は、“こより”で作った筮竹(ゼイチク)で、皆んなを占い始め、その易経の腕をあげて行く。

希望を持って立ち上がった嘉右衛門であったが、今度は高熱で倒れてしまう。

当時、劣悪な環境の獄中で流行っていた病《老死病》に犯されていたのでした。

老死病は、老人の萎れて行き、助かる確率の少ない病。

しかし、もう嘉右衛門の心が折れる事はありませんでした。

《つづく》