世の中には不可解なものが数多ある。
何故学校へ行かねばならないのか。
何故行った先々で友人を作らねばならないのか。
何故外に出て動くことが好ましいとされるのか。
わたしは、ついに今年、上記の3つを破棄することに成功した。
時に、わたしは人見知りだと言われる。
確かに、かつてのクラスメイトたちとは、ロクに会話も取ってはいなかった。
しかし、わたしとしては違うと主張したかった。
わたしというモノを、腫れ物のように皆が扱うものだから、面倒事を避けるつもりで言動を控えただけなのである。
意図的に言動を控えることに慣れてくると、果てには何かを言おうと思っても、それがすぐに声帯を通じて音声化されない状態に陥るようになった。
詳しいことはなんとも言えないが、学校という空間、およびそれに強く関連付けられている人物の前では、それがよく起こったように感じた。
それにより、仮にそれが必要であっても、まともな意志疎通が非常に困難となってしまい、わたしはより一層、クラスでの居場所を見失っていた。
ただでさえ、このわたしの見た目と体質によって、周りから妙に気を使われていたのに。
それに一切応えないわたしを快く思わずに、何処か軽蔑した目を向ける者が何人も現れたものだから、すっかり学校というものが嫌になってしまったのだ。
気が付けば、平気で仮病を使って休むほどになってしまっていた。
そんなことをして日々をやり過ごしていると、ある日とうさまがわたしの部屋へやってきて、来なさい、と言って、手を引いてわたしを部屋から連れ出した。
もう何年も触れることのなかったその手にぼんやりとしていたら、そのままわたしは車に乗せられて、あれほど避けていた学校へと、そのまま送られたのだった。
なるほど、繋がれたこの手は逃げ出さないための鎖だったのかと後で気が付いたが、もう遅い。
とうさまに手を引かれるままに、わたしは学校の中へ入っていった。
そこで何が行われるかは、わたしにも幾分か予想が付いていた。
ある教室に入ると、そこには担任と学年主任の姿があった。
わたしは、やっぱりそうだと思ったが、もはや抵抗の意思もなく、勧められるままに椅子に座った。
そこから、何を話したかはあまり覚えていないが、とうさまは当時のわたしの現状を改めて聞き、そしてわたしは相変わらず声が出なかった。
わたしはたまに時計をチラチラと見ながら、ただ時間の経過を願っていた。
ついに話が終わると、わたしは二人の教員に一礼だけして、その場を後にした。
その時見上げたとうさまの目は、暖かくわたしの目を見つめ返したのだった。
帰りの車の後部座席で、隣のとうさまはわたしに一言だけ言った。
「何も心配は要らない」
わたしの心配といえば、ただ、またあの空間へ行くような日々が続くようになることを不安がっていることだけだった。
その日の夜は眠れなかった。
行きたくない。もう行きたくないと
、電灯もない黒い天井をひたすら仰いでいた。
こんな身の上に生まれたわたしは、もうまともに他人と過ごすことは出来ないのであろうか。
見た目は他人と違い、髪の真まで真っ白い。また、多くの人より圧倒的に日の光に弱い。
そんなわたしであっても、当たり前のように接してくれる人はいないのだろうか。
いや、いた。確かにいた。
確かあの子の名前は――
翌朝、いや、昼だった。
その時の部屋のデジタル時計は『12:24』と示していたはずだった。
あれから、悩み疲れた意識は、結局沈んでいったのだろう。
夢も見ないままわたしは目を覚ました。
窓もなく間接照明で薄暗いこの部屋の壁際を歩き、珍しく自分から部屋を出た。
足にスリッパを引っ掛けて明るい廊下を目眩と共に歩いた。
時折目を瞑り、そうでないときは極力薄目でフラフラと歩いた。
わたしが目指した部屋のドアをノックすると、背の高いとうさまが、待ち構えていたかのように出てきた。
とうさまは休暇を取っていた。本当は忙しいのに、わたしのために休暇を取ったのだ。
わたしは自分の目が大変潤んできたことをいとわず、とうさまに話した。
「もう学校へは行きたくない。あの空間は嫌だ」
「せめてもっとわたしを気にしない人たちがいい」
「確かそんな人がいたのをわたしは知っている。あの子は――」
わたしがそこまで言うと、とうさまは続けて言った。
「彼方ちゃん、だね?」
「そう。その子だ」
2つ学年が違い、もうすぐあの学校を卒業するであろうあの子の名を、わたしはついに思い出した。
か、な、た。とその三文字を小声で反芻すると、とうさまはまた言った。
「君は人見知りで、その上何処へ行ってもなかなか彼方ちゃんのような人には巡り会えない――」
「無理をして学校へ行くことはない。苦しそうなその目はもう見たくない」
とうさまは優しい。わたしは何度も涙を溢した。
泣きながらも何度も頷いて、とうさまは垂れたわたしの頭を何度も撫でた。
ひとしきり声を殺して泣いた後、わたしが落ち着いた頃にとうさまはこう聞いた。
「彼方ちゃんには、また会いたいと思うのかい」
わたしは迷いもなく返事をした。
「会いたい。あの振る舞いが今では恋しいぐらいだ」
それから1ヶ月以上が過ぎた日の夕方のこと、唐突にわたしの部屋のドアを三回叩く音がした。
わたしはその時不思議に思った。
家政婦が夕食に呼びに来た時なんかは、ノックは五回するはずなのに、夕食にしてはまだ早い時間に、三回のノックはおかしかったのだった。
わたしは警戒して、部屋の真ん中に座り込んだままドアを見詰めた。
するとどうだろう。
「ねえ、私だよ。彼方」
ドアの向こうから、3年も聞いていなかった声が聞こえた。
わたしはハッとして、ドアを開けた。
「……久し振り。前より背が伸びたんじゃない?」
色々な思いが込み上げて、喉がグッと絞め上がるような思いで、途切れ途切れ、わたしは必死に言葉を捻り出した。
「何故、どうして、君が……」
すると彼方は、仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「アンタの家庭教師になりました。改めてよろしく」
わたしは訳がわからなかった。しかし、それと同時に途方もなく嬉しかった。
わたしは心底、こういう気兼ねない間柄を求めていたのだと痛感したのだった。
彼方を自分の部屋に入れてから、わたしは何か話そうとした。
だが、あの声を殺して過ごした日々の後遺症だろうか。上手く声が出なかった。
床に横座りになった彼方が、不思議そうな顔をしていたのを見て、わたしはどうすればいいのだろうと考えた。
ふと、壁際に立て掛けてあった黒い板が目に入った。
これだ。と思い、それに歩み寄って手に取った。
近くに転がっていたスタイラスペンも同時に手に取った。
黒い板の正体は、タブレット型携帯情報端末機器である。
手に取るや否や電源を入れると、わたしはとあるアプリケーションを開いた。
その画面は黒い空間で埋め尽くされていた。もし白かったらこの画面はきっと眩しかったことだろう。
液晶画面にスタイラスペンのペン先を当てると、白い線で画面に描画された。
わたしは画面に伝達事項を書いて、そのまま彼方にそれを見せた。
彼方はそれに顔を近付けて読み上げた。
「声が上手く出ないのでご承知ください。」
わたしはその声にうんうんと頷いて、また書いて見せた。
それを見てまた彼方は読み上げた。
「こちらこそよろしく。」
読み上げる彼方の顔は、笑顔だった。
それからというもの、ほとんど毎日の夕方、彼方はやって来ては三回ドアをノックして入ってくるようになり、学校でやるはずだった学習は、家庭教師となった彼方によってわたしに施された。
よって、わたしは学校に行かなくていいし、行った先で友人を作らなくていいし、外にも出なくてよくなった。