その特性ゆえに生きやすかったら強み。生きづらかったら障害になる。

学生の頃私はサークルの顧問の先生に、ピンポン玉みたいにすべてに反応してじっとしていないのを心配されていたらしい。卒業してずいぶん経ってから聞いた。
友人が多くないのは、自分が人間関係を適切に維持できなくなってしまうからだというのも気づいてる。今は疎遠になってしまっているある友人に、「貴女はそのとき目の前にいる人を全力で大事にできてるからいいんだよ」と言ってもらえて救われた。

ひとつところにじっとしていられない、考える前に動いてしまう、と言ってしまうと、これはいわゆるADHDの典型的症状、ということになる。「~できない」「~しまう」と言うからです。

だったら逆に、
ひとつところから動かないこと、考えてからしか動かないこと、そんなにいいこと?

私は、ピンポン玉だらけの子どもたちの集う、とても楽しい職場で、全体の状況と表情にちゃんと反応することにそれなりに自信があって、その瞬間その瞬間の一期一会を全力で大切にして生きられる環境を得られた。

「強み」も「障害」も、自分の持ちものではない。置かれた環境が、周囲の人間が、勝手に定義しちゃうもの。

だから私は自分で定義した。これらは全部、私の強み。