稲村の火・「濱口梧陵」所縁の地! | 紀泉伝次郎・趣味のブログ

紀泉伝次郎・趣味のブログ

趣味のブログをメイン内容として、
日々の活動や微妙な心の変化などの日記として、
身体が動かず何もできなくなった時、
読み返して記憶をたどりたいので、
  【 将来の自分の為に! 】
出来るだけ多投稿したいと思います。

今日も朝は冷えたが、時間と共に気温も上がってきて、太陽が出てるので背中に当たる太陽熱がバイク・ツ-リングを快適にしてくれた。最近のツーリングや熊野古道歩きなどで、日高町、広川町、湯浅町に行く回数が多くなってるが、

今回も広川町の象徴ともいえる

偉人【浜口梧陵】に所縁の場所を訪ねて来た。

1854年(安政元年)安政の大地震による大津波の時、濱口梧陵が命をかけて村民の命を救った「稲むらの火」。 その偉業と精神、教訓、雰囲気を味わうために、「ゆかりの地」である場所を走り捲くった。

いつも通りに有田から海岸線に出て、有田市と湯浅町の境にある「浮石」で休憩し、湯浅を抜けたらすぐに広川町の役場がある。その前には濱口梧陵が松明をもって津波を住民に知らせるべく走ってる像がある。

逆光で思う方向からの写真が撮れなかったのが残念である。撮ったのだが、陰でシルエットになった顔が真っ暗だったので掲載しなかった。

この像を皮切りに約8ヶ所の「濱口梧陵」に大きく関係する場所を巡って行く。すぐ近くにある「感恩碑」国指定史跡「広村堤防」を見に行った。次回津波が来た時の防衛として総延長約600mある堤防を私財を投じて完成させたのだ。勿論「濱口梧陵」が資産家であったから出来た事だが、しかしなかなか出来ることではない。

この案内図の場所を順不同に巡って行くことにする。

「稲村の火の館」へ向かった。「稲むら」を実際に再現してあったり、「天皇皇后両陛下行幸記念」、「皇太子殿下行幸記念」の碑があり

、その後ろにある建物は「濱口梧陵」が住んでいた家だという。

続いて、「耐久舎」へ行く。「和歌山縣立耐久中學校」の、もう今では使わなくなった古い漢字が際立って、今回のバイクツ-リングの雰囲気を満足させてくれた。

この学校の校庭の隅っこに「耐久舎」がある。「濱口梧陵」は、色んなことに私財を投じ、村や地域に大きく貢献してきたことが分かる。

中が見えたので写真を撮らせていただいた。洋服を着てるので明治に入ってからの写真であるということと、年齢を重ねて相当な重責を担ってる雰囲気が漂った写真であることが分かる。

関心を持たれた方は「濱口梧陵」でクリックしてみよう!

同じ校庭内の運動場の一番奥に「濱口梧陵翁銅像」が、晴れた空のブル-バックに冴えわたる。今回は「濱口梧陵」メインの広川町訪問なので、この銅像を見た時には「感動!」さえ覚えた。「生ける神!」と称された「濱口梧陵」の功績はこれ以降、広川町だけでなく全国的な災害対策へと影響を与えたことは、広川町の大きな財産であり、遺産は強烈に保護保全維持に努め、その精神を未来永劫に伝えていく義務があるという事を、耐久中学や高校でしっかりと教育してると想像する。

「濱口梧陵翁銅像」の前でたっぷり眺め、ゆっくりアングルを決めて写真を撮りまくった。バイクに戻るときにまた学校の正面入り口にさしかかり目に付いたのは、「眞・美・健」という文字が書かれた碑である。古いタイプの自分にとっては、「頭が下がる!」文字が書かれていた。

「いや~、本当にぐっと来た!」

学校という場所から縁が切れてほどほど遠くなってしまったが、この「眞・美・健」という内容には、恐らく「濱口梧陵」の教えが大きく影響してることは、容易に想像がつく。

さて次に訪れたのは、「広八幡神社」だ。バイクに乗り始めの頃で、もう何十年も前に一度だけ来たことがあったが、今回来てみて雰囲気がガラッと変わっていたことに驚きがあり、また知識や関心も薄かった当時と今では、自分自身の神社に対する知識や関心度も高まっている中での今回は、圧倒される「広八幡神社」のイメ-ジは一見して変化した。さらに「宮司さん」が約一時間も自分専属で説明や歴史を教えてくれて、境内をナビゲ-トしてくれたのだ。

着いてすぐにこの大きな「楼門」を眺めまわす。独特の「朱色」が

際だって美しい。

寺だと山門の両脇に「阿吽!」の仁王像が鎮座するが、この楼門の左右には、平安調の大きな像が極彩色で収められている。神社でこういう「楼門」も少ない。

楼門をくぐり境内に入ると、緑の林をバックに「朱色」の拝殿・本殿が鎮座していた。うろうろと眺め、写真を撮ってると拝殿前のこの灯篭には「享保十」の文字があったので、早速帰宅して調べると「1725年」とあった。将軍吉宗、紀伊国屋文左衛門、大岡越前、田沼意次等々が活躍した時代である。

拝殿に上がって、「千木・鰹木の三間社流造」の本殿や、合祀された神社などの写真を撮っていると、「宮司さん」が声をかけてくれた。ここから約一時間程、付きっ切りで説明や案内をして頂いた。こういう経験は初めてなので、嬉しかったことは勿論の事、「宮司さん」の親切で優しい人柄に感動しながらも、遠慮なくナビゲ-トして頂いたのだ。

「濱口梧陵」の話をすると、境内の隅っこにあるこの「濱口梧陵碑」の場所まで案内してくれた。

境内にある大きな鯉の写真を撮り、さらに「楼門」までバイクを入れて写真を撮りたいと宮司さんにお願いして快諾して頂いた。

さらにご無理をお願いした。拝殿でのツーショットである。これも快諾して頂き撮ったのがこれだ! もうこの写真一枚で今日のツーリング旅は見事に成立してしまった。嬉しさの極みをくれた「宮司さん」に感謝である。

「宮司さん」、本当にありがとうございました!

それからちらっと「宮司さん」が言ってた八幡神社ではなく、八幡宮となるという事を帰宅してから調べたら、

---------------------------------------------

5月9日   廣八幡宮復称奉祝祭
廣八幡神社から「廣八幡宮」へ江戸期までの名称に戻ります。

---------------------------------------------

という事を確認しました。「八幡神社」よりも「八幡宮」の方が格式が高いと思いますので、地元上げてより一層の宝となる。

さて最後の訪問場所である「濱口梧陵墓」を目指した。これで「濱口梧陵」と関係の深い場所巡りは終了した。

このあと走り込みで、「白崎海岸」と「由良湾」まで行って、帰宅の途に就いた。

-------------------------------------------------

東北の大震災があった時にも「濱口梧陵」の特集をNHKがしていたのを思い出す。科学やテクノロジ-が進んだ今でも「地震や津波」に対して、「濱口梧陵」の教訓が生きていて、また必要とされているという事である。

ネットや本などで見聞きするよりも、実際に我が身をその場にもっていって、「見る、聞く、触る、撮る!」は感動があり、たまに失望もあるが、それも経験として頭や身体に沁み込む財産となる。

今回は、本当に「宮司さん」にお世話になった、

という事は「広八幡宮」が好きになったという事、

つまり「広川町」の自然や歴史が気に入ったチョキ

イヤ-、天気よく、寒くなく、最高の気分でツーリングを楽しめた100点

 

今回も数多くの写真を撮ったが、厳選に厳選を重ね、絞りこんでUPしたこの枚数では十分に理解しがたいと思う。

どんなことでもそうだが、

ならば一度行って実際に体感することが

百聞は一見に如かず!感動と発見!

である。

 

走行距離・・202.1km

所要時間・・・・7h10m