こんにちは。
前回の保渡田古墳群の次は、綿貫古墳群の観音山古墳に移動しました。
綿貫古墳群は、保渡田古墳群の傍を流れる井野川(烏川の支流)の支流を下った右岸台地に位置しています。
高崎市岩鼻町~綿貫町にかけて、5世紀中頃から6世紀後半の間に、計画的に築造された大型の前方後円墳4基と周囲の円墳群から成る 古墳群です。
この中に国指定史跡である観音山古墳があります。その主軸は、なだらかな台地に沿う形で、ほぼ南北(北北西~南南東)方向になっています。築造年代は6世紀後半から7世紀初頭と言われています。任那(みまな)滅亡後になりますね。
この古墳群の中では、観音山古墳は新しい部類に入る古墳とのことです。その他の細かいデータは、本記事の【参考記事】をご覧願います。
この古墳からの出土品は、国宝となって近くにある群馬県立歴史博物館に保管されているそうです。
後円部は高さ9.5mの三段築成で南西方向に横穴式の石室が開口しています。石室からは銅鏡や金、銀、銅製の装身具、銅製の水瓶など多数の貴重な副葬品が発見されています。
特に銅製の水瓶などは当寺まだ日本国内ではさほど普及に至らなかった仏教に用いる仏具に一つで、観音山古墳の主とその一族は独自の文化を保っていたとされています。
更に石室から見つかった獣帯鏡は百済国の武寧王稜から発見された獣帯鏡と同一の鋳型で造られた物であり東南アジア製です、これら朝鮮半島、東南アジアとの交流を示す副葬品や墳丘の規模などから当時関東に勢力を持ち外交にも通じていた上毛野氏が観音山古墳の主と考えられています。
【にわか独りよがり考古学】
同時期に「上毛野君小熊」なる人物が武蔵国造である笠原氏の内紛(武蔵国造の乱※)に関与しています。この上毛野君小熊は上毛野国造であり観音山古墳に埋葬された人物であったとの見解があります。埼玉県行田市にある埼玉古墳群(後述する笠原直使主一族が築いたといわれる)との関係も興味がありますね。
※ 『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。
同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族(系図によればいとこ)の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。北の小熊と南の小杵で、挟み撃ちの構図ですね。
小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を成敗したそうです。
何故小熊が小杵と組んだかですが、榛名山二ツ岳の噴火で荒れた農耕地の代替地を地続きである埼玉県(武蔵野国)北部に求めたいという目論見があり、その地では既に使主が勢力を持っていたからでしょう。
東国支配の強化を目論む朝廷と組んだ使主が武蔵国造になるわけですが、結局使主は、武蔵野国の一部を屯倉として朝廷に献上しています。
以上が史実だとすると上毛野君小熊は、朝廷さえも恐れない力を持っていたことになります。
なので前回書いた保渡田古墳群(二子山古墳、八幡山古墳)の被葬者が、朝廷方向に足を向けて埋葬されている理由も理解できます。
保渡田古墳群の被葬者と綿貫古墳群の被葬者は、一族であったと想像しています。
すなわち、保渡田古墳群の被葬者はその周辺を開墾した綿貫古墳群の被葬者の一族でありましたが、榛名山二ツ岳の噴火(5世紀末と6世紀前半)の後に、高崎市岩鼻町~綿貫町に戻って、角閃石安山岩(二ツ岳の噴火で流れ出た溶岩が固まって出来た石)を用いた横穴式石室を持つ前方後円墳を築造した。
史跡脇には、管理事務所があってシニアの男性(三家人さん)が1名常勤されていました。一通り見学が済んだ後、お話を伺いました。
私が知りたかったことがあったので率直な疑問をぶつけてみましたところ、丁寧な回答を頂けました。
①なぜ石室が盗掘から免れたか?
盗掘を企てた人間は後円部頂上から3mほど竪穴を掘ったそうですが、石室にはたどり着かなかったと思われる。
これは、この古墳が横穴式石室であったことと、さらに石室の天井石が石室内に陥落していたことが理由と考えられているそうです。
②墳丘を覆う葺石が、無いのは何故?
葺石でなくて、野芝を墳丘に植えて土砂の崩れを防いだそうです。
その管理人さんは完全な復元に向けて野芝で墳丘を覆うように、群馬県教育委員会に申し入れをされているとのことでした。
③その他参考になったお話
②とも関係しますが、被葬者の棺は石棺ではなかったらしい。
また中国の不老長寿を意識した埋葬方法が、推測されるそうです。被葬者の枕元に位置する部分から桃の種が見つかったとか。
中国で桃といえば、不老長寿・幸運の果実です。
確かに死者の復活を願うには、石で封じ込めるのは不自然ですからね。
【参照記事】