智積院
智積院は山号を五百佛山、寺号を根来寺といい、本尊は金剛界大日如来、創建は1598年、開基は玄宥です。 智山派の大本山には、千葉県成田市の成田山新勝寺、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺、東京都八王子市の高尾山薬王院があります。 ”智積院”(1998年6月 淡交社刊 近藤隆敬/水野克比古著)を読みました。 京都市東山区にある真言宗智山派総本山の智積院の四季を写真と文章で紹介しています。 近藤隆敬さんは智積院化主第六十七世で、1912年東京都に生まれ、1922年得度、1932年東京都長福寺住職、1997年10月真言宗智山派管長、総本山智積院化主第六十七世に推戴され、現在に至ります。 水野克比古さんは、1941年京都市上京区に生まれ、1964年同志社大学文学部卒業、1969年からフリーランス・フォトグラフアーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んできました。 智積院は、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係しています。 智積院は、もともと紀州根来山大伝法院の塔頭でした。 大伝法院は真言宗の僧覚鑁が1130年に高野山に創建した寺院ですが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、1140年大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てました。 智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所でした。 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、1585年の根来攻めで全山炎上しました 当時の根来山には2,000もの堂舎があったといいます。 当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れました。 玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志しましたが、念願がかなわないまま十数年が過ぎました。 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の1601年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興しました。 さらに、三代目住職日誉の代、1615年に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を根来寺、山号を現在も根来に名を残す五百佛山としました。