私の中の東京(感想)
後に都電三号線になった外濠線沿いを手始めに 銀座、小石川、本郷、上野、浅草、吉原、芝浦、麻布、神楽坂、早稲田などを、明治末年生まれの野口 富士男さんが、記憶の残像と幾多の文学作品を手がかりに、戦前から戦後へと変貌を遂げた街の奥行きを探索しています。 ”私の中の東京 ”(2007年6月 岩波書店刊 野口 富士男著)を読みました。 愛情溢れる追想と実感に満ちた東京の文学散策です。 野口冨士男さんは、1911年東京生まれ、慶應義塾大学文学部を中退して文化学院に入学した頃から旺盛に小説を執筆し、1933年に文化学院を卒業しました。 卒業後、紀伊国屋出版部で編集の仕事に従事しましたが、1935年に紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社し、1936年から1937年まで河出書房に勤務しました。 第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、復員語、1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念し、約10年を費やして秋声の年譜を修正しました。 このころ東京戸塚の自宅の一部を改造して学生下宿を営みました。 1965年に毎日芸術賞、1975年に読売文学賞、1980年に川端康成文学賞、1982年に日本芸術院賞、1986年に菊池寛賞を受賞し、1987年に芸術院会員、1984年から日本文藝家協会理事長を務め、1993年に呼吸器不全のため自宅で死去しました。---------- ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。 東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくなくないのではなかろうか。 私達が知っているような気になっている東京とは、東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。 たまたまなんらかの機会をあたえられて、幾つかの町を知る。 その知っているだけの町を幾つかつなぎ合せたものが、私達の頭の中で一つの東京になっている。---------- 大正7年に入学した慶応義塾の幼稚舎は、当時はまだ三田の大学の山の下にあって、飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て、札の辻に至る系統の市電、のちに都電3号線となった外濠線を毎日往復しました。 その沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書き始めています。 東京の町を哀惜をもって描く文学の主流は、永井荷風に始まり、野口富士男に受け継がれたようです。 野口富士男には膨大な日記が残されているといいます。 まだ紹介されていないものもあるようです。 古き良き時代の東京の姿を、文学の語り部にもっと聞いてみたいものです。