大村 智物語-ノーベル賞への歩み(感想)
”大村 智物語-ノーベル賞への歩み”(2015年11月 中央公論社刊 馬場 錬成著)は、夜間高校教師からはじまり2015年ノーベル生理学・医学賞受章に至るまでの波瀾万丈の研究者人生を紹介している。 大村 智氏は1935年山梨県北巨摩郡神山村の農家に、5人兄弟の2番目の長男として生まれた。微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見した。感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献し、また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。馬場錬成氏は1940年生まれ、東京理科大学理学部卒業、読売新聞社で科学部、解説部記者などを務め、2000年まで論説委員であった。退社後、科学ジャーナリストとして知的財産権強化の立場より積極的に提言を行っている。大村 智氏は1954年に山梨県立韮崎高等学校を卒業し、1958年に山梨大学学芸学部卒業をした。理科の教諭を志したが地元山梨での採用がなかったため、埼玉県浦和市に移住し、1958年に東京都立墨田工業高等学校定時制に5年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った。学業に熱心に励む高校生に心打たれ、もう一度勉強し直したいと考え、1960年に東京教育大学の研究生となり、中西香爾氏に師事した。中西香爾氏の紹介で1961年に東京理科大学大学院理学研究科都築洋次郎氏の研究室に所属し、高校教諭として働きながら1963年に修士課程を修了し、山梨大学工学部発酵生産学科の助手となり、加賀美元男研究室でブランデーの製法の研究に従事した。1965年に北里研究所に入所してからは、微生物が産生する新しい化学物質を見つける研究を続けた。1965年に北里研究所技術補となり、小倉治夫氏の下で抗生物質を研究し、ロイコマイシンの構造を解明した。1968年に北里研究所での研究により東京大学から薬学博士の学位を授与され、北里大学薬学部助教授に就任した。1970年に、ロイコマイシン、スピラマイシン及びセルレニンの絶対構造により東京理科大学から理学博士の学位を授与された。その後アベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組んだ。イベルメクチンは抗寄生虫薬として活用されるようになり、寄生虫感染症の治療法確立に貢献した。アベルメクチン以外にも、生涯にわたり新たな化学物質を発見した。1971年にウェズリアン大学客員教授、1973年に北里研究所抗生物質研究室室長に就任した。それまで誰もやっていなかった産学連携に真っ先に取り組み、メルク・アンド・カンパニーとの共同研究を開始し、250億円もの特許料収入を北里研究所にもたらした。1975年に北里大学薬学部教授、1984年に北里研究所理事、1984年に北里研究所副所長、1985年に学校法人北里学園理事、1990年に北里研究所所長、1993年に女子美術大学理事、1997年に女子美術大学理事長に就任した。2001年に北里大学北里生命科学研究所教授となり、日本学士院の会員に選定された。2002年に北里大学大学院感染制御科学府教授、2005年にウェズリアン大学マックス・ティシュラー教授、2007年に北里大学名誉教授、2007年に女子美術大学理事長に就任した。2012年に文化功労者となり、2013年に北里大学特別栄誉教授を務めた。2015年には、日本人で3人目となるノーベル生理学・医学賞を受賞した。人材を育てることに情熱を燃やし、積極的にやる気を出す学生には惜しまず支援し、海外の有名な研究者をセミナーに呼んで、若き学徒らのレベルを引き上げ国際的な感覚をつけさせた。大村研究室から輩出した教授は31入、博士号をとった大は120人もいる。研究者としてすぐれた実績を残しただけでなく、研究所の経営でも辣腕をふるい、つぶれかかっていた北里研究所を立て直した。埼玉県北本市には北里大学メディカルセンター病院を建設し、病院の中の壁面にたくさんの絵画を展示して別名”美術館病院”とも言われるようになった。そのほか、教育分野では学校法人女子美術大学の理事長を2度にわたり務め、学校法人開智学園の名誉学園長を務め、自身のコレクションを基に韮崎大村美術館を設立し、その館長を兼任している。いやなことはなんでも一番先に自分かやって見せると語っているように、時には地にはいつくばるような頑張りを見せながら、ノーベル賞への道を歩いてきたという。巻頭に、大村博士自身による書下し、”若き日の君たちに伝える”が特別収録されている。第1章 夜間高校教師から研究者へ第2章 北里研究所からアメリカへ留学第3章 イベルメクチンの発見第4章 外国での評価高まる第5章 独立採算と新しい病院の建設第6章 自分を磨き人を育てる第7章 科学と芸術のつながり