<「中国の宇宙創生と宇宙観」 >
さて、「古事記」編纂時の、「インテリ」達は、「中国の文献」に精通していたと思われます・・・従って、「記紀」では「天地が別れた」時、どのようにして分かれたのかの記載がないのですが、「インテリ」達は、「それは「中国の盤古の伝説」のようにね」とツーカーになっていたのかもしれません(「私」の想像です)
では、再度「中国の天地開闢」の話を記載します・・・「盤古の伝説」では・・・「ウィキペディア」などによると・・・「「天地」がその姿形をなす前、全ては卵の中身のようにドロドロで、混沌としていた。その中に、「天地開闢」の主人公となる「盤古」が生まれた。この「盤古誕生」をきっかけとして「天地」が分かれ始めたが、「天」は1日に1丈ずつ高さを増し、「地」も同じように厚くなっていった。その境にいた「盤古」も姿を1日9度も変えながら1丈ずつ成長していった。そして1万8千年の時が過ぎ、「盤古」も背丈が9万里の大巨人となった時、現在のような「天地の姿」が形づくられたとのこと。そして、このようにして、「天と地」が分かれると、自らの役割を終えた「盤古」は死を迎えます。
「盤古」が死ぬと、その死体の「頭」は「五岳」(東岳泰山を筆頭とした北岳恒山、南岳衛山、西岳華山、中岳嵩山の総称)となり、その「左目」は「太陽」に、その「右目」は「月」に、その「血液」は「海」に、その「毛髪」は「草木」に、その「涙」が「川(長江、黄河)」に、その「呼気」が「風」に、その「声」が「雷」になった・・・「盤古」の体から自然を形づくるあらゆる存在が分かれ出でていくことによって、「宇宙の内」にあるすべての事物が形成されていくことになった」と説明されています・・・これが「古代中国の天地創生」ですね。
《「盤古」》
(オンライン画像より)
では、「古代中国」では、「宇宙」をどのように考えていたのでしょう・・・「古代の宇宙観」というサイトに書いてありました・・・。
「「古代中国」では,すでに宇宙を,単に空間的なひろがりだけでなく,時間をも含む概念として捉えていた。そのことは,紀元前2世紀の前漢時代の『淮南子』に,「往古来今謂之宙 四方上下謂之宇」という記述があることでわかる。意味は,「宙」とは往古来今すなわち時間,「宇」とは四方上下すなわち空間のことだと,言っているのである・・・いくつか説があり・・・
・天円地方の宇宙説
大地は巨大な正方形をなしており,天はそれよりさらに大きい円形(天の
中心は北極星)または球形(北極星と大地の中心を結ぶ線が球面の軸)
・蓋天説
大地はお椀を伏せた形で,その上に半球形の屋根のような天が覆っている
・渾天説
卵形の宇宙の中心に卵黄のように地がある
・宣夜説
「天は了として質なし」つまり質も何もない空虚な空間が無限に続くという
無限宇宙論。その中に浮かぶ各天体はそれぞれ独自の規則に則って運動して
いるとする。
とされる」とのこと。
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
「記紀編纂」は「奈良時代」であり、「遣隋使」「遣唐使」などによって、「中国」から多くの文献が入ってきていると考えられます。その文献を学び、「宇宙観」についても学んでいたのではと考えられます。そんな知識の上に「記紀」は編纂されていたと思われるので、その影響は気負着ける必要がありますね・・・しかし、「古事記」の「日本神話」の部分は、「古くから伝わっている物語」として「日本独自色」がありそうなので「探検」し甲斐があります。
ところで、「古代中国」の人々の発想も素晴らしいですね・・・「天文学」は現在ほどでないにしても、「宇宙」を的確に想定している面もあります・・・不完全にせよ「宣夜説」は、「現在の宇宙観」に似ているものではないだろうか。
また、「日本書紀」の「宇宙観」はその記述から、「古代中国」の「渾天説」を流用したような・・・。
( 注記 )
※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味の
ある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:「角川文庫 古事記」「武田祐吉訳
古事記」ウィキペディア、ニッポニカなど]
・・・次回は「古代インドの宇宙創生と宇宙観」