歴史の探検《 “戦国時代”(239) 》・・・「佐久間信盛」の追放 | 季節の旅人のブログ

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<「戦国時代の主役“織田信長”(167)」・・・「佐久間信盛」の追放 >

 

石山本願寺」との戦いは、「織田方」のほぼ勝利で終結しました。「佐久間信盛」は「大阪方面」の司令官として、「織田家中」で最大規模の軍団を統括し対応していました・・・「石山本願寺」に勝利したことは、この「佐久間信盛」の成果と誰しも思ったことでしょう。

ところが、「信長」の評価は別でした。「佐久間盛重」は「信長」から19ヶ条にわたる「折檻状」を突きつけられます。そして、「「高野山」へ行け」と突き放されます。

 

        ⦅ 「佐久間信盛」画像 ⦆

                   (オンライン画像より)

 

追放の憂き目にあった「信盛」は、嫡男の「信栄」と共に「高野山」へと上ったとのこと。その後、「高野山」にすら在住を許されず、さらに南に移動したと伝えられ、「佐久間家」の郎党も「信盛」父子を見捨てて去り、「高野山」に落ちる時はつき従う者は2、3名、「熊野」に落ちる時は1名きりだったといわれます。

 

 また、同時期に、「林秀貞」等他2名も追放されています。「林秀貞」に至っては、「折檻状」もなく、昔、謀反をおこしたことを理由し、追放されたとのこと。

 

 

【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】

 19ヶ条にわたる「折檻状」をみると、「明知光秀」「羽柴秀吉」「柴田勝家」の功績を引き合いに出し、「佐久間信盛」の無能さを指摘しています。

 特に「石山本願寺との戦い」では、包囲するばかりで、調略などの手も打っていないと指摘されています。確かに、包囲していても、補給路は断つことは出来ていなかったように思えます。そのため、「信長」自らの主導で、「雑賀遠征」で南からの補給路を断ち、「鉄甲船」による「毛利水軍」を壊滅させ、海からの補給路を断ってやっと、「石山本願寺」を「兵糧攻め」に出来たのかもしれません・・・これからの戦いは、戦い方法を工夫したり、調略なども必要となります。今までの力攻めのみの司令官では、これからは務まらないとみたのか・・・?

 

 この時期に、譜代の大物家臣を追放する「信長」意図が、私には想像できません。「天下布武」のためには、まだまだ、ある程度信用できる家臣がいることが必要に思えます・・・「信長包囲網」が瓦解していっているので、気が緩んだということはないでしょうね・・・また、「安土」に居ながらにして、戦略侵攻をコントロールし始めています。部下が思うように戦果上げないことに、いら立ち、辛抱出来なくなっているのでは・・・このため、「悪手」を打ち始めたということはないでしょうね。

 また、このころ、「信長」は最前線に出る機会が少なくなっています。報告を受けながら判断しなければならないため、諫言に惑わされる機会も増えてきたのかも・・・また、詳細な現場の状況が分からないので、その時点では、無理筋と思われる作戦を「家臣」にどんどん要求しているのかも・・・「家臣」によってはだんだん顎が上がり始めているのかも。

 

信盛」失脚後に「信長」の実質的な本拠地である畿内方面軍の軍団を統率することになったのは「明智光秀」です。「佐久間軍記」には、追放について「誰かの讒言でもあったのではないか」という意味のことが書かれているようです・・・そして、江戸時代に書かれた別の書物には、それは「明知光秀」だったとの記述があるようです・・・身内としては、自分のせいではなく、何か別の要因でこうなったと思いたいでしょうから、こういった記述の出て来るかも・・・実際はどうだったのかな?・・・これが、「本能寺の変」を起こしやすくしている面もありますよね。

 

 ひょっとして、「秀吉」や「光秀」のような突破力がなく、「信長」にとって無能に見える「佐久間盛重」を「」「畿内」の「治安部隊」に置いて利用しておいても良かったのでは・・・「本能寺の変」が起った後の結果論なのですが・・・。

 

 

( 注記 )

 ※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味のある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]

 

                                                        ・・・次回は「馬揃え」