五井先生の著書『聖なる世界へ』(1976年初版)の中に
「愛について」という題でお書きになった小論があります。

その抜粋を数回に分けてご紹介しています。

今日は、その5回目(最終回)「永遠の生命に繋がる愛」です。

※文章の中の太字・色付けは、AKIによるものです。

 

 

 

 

 永遠の生命に繋がる愛

 

 

 

親が子を愛し、夫婦や恋人が愛し合う、これも愛であることに変わりありません。しかし、こうした愛は、個人的な愛でありまして、肉体的つながりによって生まれる愛です。ですから必ず、別離の悲しみがそこに伴います。人間は肉体的には別離の時が必然的にめぐってくるからです。


こうした愛のみを愛と考えている人も随分あるのですが、これは自己愛の現れでありまして、肉体という自己限定から生まれているのですから、永遠の生命につながる愛とはなりません。かえって神の大愛を妨げる行為となることもあるのです。


真実の愛というのは、そこに自我というものが無い状態の愛行為でありまして、自己の感情の喜びを意識しての愛ではありません。ですから、どうしても肉体身としての自己を意識しては、とても行えるものではありません。肉体を超越して、宇宙生命と同化した心になっていてこそ、自然と自己犠牲の愛が行えるのです。


だがしかし、そういう心境になるためには、それ相当の修行が必要になります。釈尊は愛という言葉を執着とおなじようにみておられ、業(ごう)のほうに入れておられます。そしてその執着の愛の想いを超えるためにも、空(くう)になる修行が必要であると説いておられます。


現代の人々は、釈尊時代のように、空になるための座禅観法ばかりしていられません。だからといって、執着であり、喜びが裏がえって悲哀となり、親密が時には恨みとなってくるような愛の想念でいたのでは、人間はいつ迄も苦悩の世界からぬけきることは出来ず、永遠の生命を得ることも出来ません。


親子や夫婦や恋人や知人の愛情の交換がいけないというのではありません。そうした愛情も根底においては、宇宙生命のひびき、神のみ心に根ざしているという、大きな広い愛からきているものでなければ、この地球人類はもう進化がないどころか、自我のぶつかり合いで、滅亡してしまうに違いありません。


ここのところが実にむずかしいところでありまして、親子の愛や夫婦の愛、恋人の愛、友人の愛、はてはもう少し大きくなって、郷土愛、国家愛、民族愛、というように、こうした愛がだんだん広がってゆきまして、国家愛、民族愛というところまでゆきつきますと、執着の愛でありましても、自分個人というものを捨てた、大きなものへの奉仕、犠牲精神というものになってきます。


ところが、自己犠牲である、民族愛であり、国家愛でありましても、神のみ心本来の愛、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるものを生き生きとさせる、すべての生命を生かす、という愛になっているか、というとそうではありません。その愛は、国家というエゴイズム、民族という自我心で止まってしまっています。


お互いの国家が、民族愛といい愛国心という、自己犠牲の精神で戦いつづけ、そこに得たものは、地球人類滅亡への一歩一歩の歩みでしかなかったのが、現在の世界の状態です。かつての日本人も愛国心で戦ったのです。アメリカ人もベトナム人も愛国心や民族愛で戦ったのです。そうした個人個人の犠牲精神は美しい。しかし、その根源が自我欲望の道を歩いているのですから、その犠牲は現状としては稔り(みのり)はしなかったのです。しかし考えようによっては、そうした大きな犠牲をはらったことによって、お互いが戦争の愚かさを次第に心の奥底にまでしみわたって知ってゆくことでしょう。それは確かに個人個人の大犠牲によって生まれ出たプラスへの道であるのです。


私はアインシュタインのいうように ”これは非常にむずかしいことで、誰にでも成就できないが” 神のみ心の奥の世界、宇宙生命の根源の意図を悟って、地球人類が真の人間の在り方、真の愛の行為を、是非行わねばならぬと思うのです。これは一朝一夕で出来るものではありません。たゆみない修練と日常生活の習慣が必要なのです。


それは瞬々刻々の観の転換法によるとよいのです。観の転換法即ち祈りなのです。この世の入り乱れた雑念だらけの頭の整理のため、私たちは心を静めることが大事です。心を静め、それと同時に、知らない間に宇宙観が変わってゆく。肉体身オンリーであった人間観が、いつの間にか神一念、久遠の生命のひびきと一つになってゆく。この観の転換法、これが私が常に申しております、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです


世界平和の祈りの中に、凡夫である自分、間違いだらけの自分を瞬々刻々投げ出して、神の正しいみ心を頂き直す。そういう自然の祈りの行為の中に、親子の愛も、夫婦や親族知人の愛の行為も、人類愛の行為と等しい行為として、執着を放たれた光明輝くひびきとなってゆくのであります。


<中略>


なかなか捨てきれない、肉体的自己愛の想いを、瞬々刻々の世界平和の祈りの中で、知らぬ間に消し去り、祈り心を積み重ねてゆくうちに、自己犠牲とかいう想いのないまま、真実の愛が自然に行じられるようになってくるのです。


なんにしても、人間にとって、祈り心ほど大切なものはありません。そしてその祈り心が人類愛そのものになっている、世界平和の祈りこそ、肉体身にいながら、肉体身を含めた生命全般への大きな愛のひびきとなって、ひびきわたってゆくのであります。



五井昌久 著『聖なる世界へ』より




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