ロバの一休さんと別れ、すぐに本堂です
本堂前は、やはり足立美術館庭園で知られる
中根金作氏の作庭による広大な枯山水庭園。
本堂・無明院から庭に向かって右側より、
「無明の庭」「阿弥陀三尊の庭」「羅漢の庭」と呼ばれます
ちょっとしたカフェや売店があり
寺家製の梅干しやらっきょを売っていました
ここも気持ちよくぼんやりできそうなスポットです
本堂の並びに「荘厳堂」という
白隠禅師の禅画コレクションミュージアムが
あります
【白隠】
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
と称えられた白隠慧鶴(はくいん えかく 1685~1768)禅師は、
臨済禅の中興の祖で、特に禅の民衆化に努めたことで知られます。
白隠は、江戸時代中期、駿河国原宿(現・静岡県沼津市)の町屋に生まれるも、
15歳で出家して原の松蔭寺に入り、諸国を行脚して
飯山(現・長野県)で悟りを開き、32歳の時、
請われて松蔭寺に帰り、これを復興。
晩年は三島の龍澤寺を開山し、松蔭寺で84年の長寿を全うしました。
その間、特に60代後半以降(宝暦~明和期 1751~72)、達磨や観音、
あるいは祖師のほか、様々な恰好の布袋や大黒をはじめとした七福神、
親孝行などを説いた墨蹟や絵画を揮毫しました。
宝暦・明和といえば江戸で錦絵が誕生し、京では白隠に参禅した
池大雅や伊藤若冲が活躍した時代です。
白隠は膨大な禅画を残しました
一見、飄逸でふふ、と微笑んでしまう画ですが
一枚一枚の解説を読むと、深い禅の思想が
息づいています
【眼一つ達磨】
禅の公案「我が眼で我が眼を見よ」
を忠実に実践した結果、眼が一つになった
仏を観るというのも、仏が仏を観るのだと
悟ったという
【熊谷蓮生坊】
熊谷直実は、一ノ谷合戦で少年・平敦盛を討ち
世の無常を感じ法然上人のもとで出家し
蓮生と名乗り、生涯を戦乱で没した人々の
供養に捧げた。
鎌倉に向かうときも西方極楽浄土を慕い
逆さまに騎乗したという
【おきあがりこぼし】
賛*よしあしを捨てて起き上がり小法師かな
ヨシもアシも同じ水辺に生えている植物の名前であるのに
関西ではこれを「よし」といい、関東では「あし」と云う。
本来同じものであるのに、状況により名称が変わる草を
ヨシ=善し アシ=悪し にかけて
良いとか悪いとかぐだぐだ一事にこだわって
つまづいていないで、立ち上がりましょう
という教え
能「山姥」のシテは、流転する自然そのものを
象徴するかのような母性をもっている。
杖をついて「よし足引きの山姥が山廻りするぞ苦しき」
と謡い、輪廻(山廻り)を続ける
即ち「まあ良いだろう、足を引きずりながらの
中々ままならない、善悪の観念に縛られながらの
魂の輪廻であるが、それこそが己という存在の
ありのままの姿なのだから」
と、今日は意訳しておこうかな…
神勝寺 一日禅体験レポート その⑤へつづく