一旦話をもとに戻そう。
そもそも能「杜若」に、怪談になるような不吉な要素はあるのか?
「杜若」の作者は、世阿弥とも禅竹とも言われる。
典拠は伊勢物語。
昔在原業平が、禁断の恋の代償として都を出奔し、
三河国八橋の沢辺に美しく咲く杜若を和歌に詠んだ。
都の恋人藤原高子への想いが込められた和歌だ。
か らころも
き つつなれにし
つ ましあれば
は るばるきぬる
た びをしぞおもふ
能では時代を隔てて三河の国を旅する僧の前に
杜若の精が現れる。
業平の形見の初冠と藤原高子のシンボルの衣を身につけて
伊勢物語に語られる業平の栄枯盛衰、
恋の数々を語り美しく舞う。
精は言う。業平は、実は「歌舞の菩薩であった。」と。
歌舞は人間界と神の世界を繋ぐ通い路だ。
その路を繋ぐことのできる業平は「陰陽の神」であり
その和歌に詠まれたことにより、心を持たない草木でありながら
成仏することができるのだという。
それ故に業平との恋の道もまた、成仏への路なのである。
「昔男の名を留めて、はなたちばなの におひうつる あやめの鬘…」
夜明けとともに杜若の精は成仏してゆく。
ただただ美しい幸福感に満たされる「杜若」。
不吉な点があるとすれば業平が「陰陽の神」=あの世とこの世を
つなぐ存在である、という点くらいだろうか。
私はあるとき、業平が和歌に詠んだ杜若の旧蹟を訪ねた。
愛知県知立市八橋町無量壽寺に、業平にちなんだ杜若園がある。
さぞかし地元ならではの美しい謂れに出会えることだろうと期待していた。
しかし地元に伝わるふたつの物語は、いずれも
哀しく、恐ろしいものだったのだ。
その1 杜若姫供養塔(無量壽寺境内)
杜若姫は、小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を
恋い慕って、やっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、
業平の心を得ることができず、悲しんで池に
身を投げて果てたと伝えられている。 この塔は、
姫を哀れみ後の世に供養して建てたものと思われる。
その2 羽田玄喜二児の墓(無量壽寺境内)
(八橋の名の由来)
むかし、まだ八橋が野路の宿と呼ばれていたころ、
羽田玄喜という医者が住んでいた。
妻はこの地の庄司の娘で二人の男児があり幸せに暮らしていた。
しかし、早くに夫と死別し女で一つで二児を育てねばならなくなった。
妻は、生計の資を得る為に入江裏で昆布などをとっていた。
二児は母を訪ねて行き、誤って深みにはまり命を落としてしまった。
母は悲しみのあまり尼となり、子の菩提を弔うために、
この寺に墓を建てて観音様に祈りを捧げていた。
ある日、観音様が枕元に立たれて「明日の朝、上流から材木が
たくさん流れ着くから、村人と力をあわせ橋を架けなさい」と告げられた。
母である尼は、お告げに従い村人たちと力を合わせて
深みを選んでは橋を架けた。向こう岸から、こちらまで完成してみたら、
丁度8箇所に橋が架けられていた。以後、
この村を「八橋」と呼ぶようになった。
なお、二児の母親の墓は、何故かここから
約500mほど離れた在原寺の庭園にある。
怖い話をもうひとつ。
京都上賀茂神社の近くに野生の杜若が群生する
名所・大田神社がある。
上賀茂神社やこの大田神社がある場所は、もともとは
沼地であった所を氏族の賀茂氏によって開墾されたと
言われており、今も大田神社の東側には
「大田の沢(おおたのさわ)」と呼ばれる、
約2,000平方メートル(30m×70m)の広さの沼地が残っている。
大田の沢は日本三大杜若の自生地のひとつで、野生種の
杜若は希少価値が高く、国の天然記念物に指定されている。
この「大田の沢の杜若」は、京都の七不思議のひとつに
数えられているのだが、それは、この沢に手を浸けると、
手が腐るという言い伝えが残されているためなのだ。
確かに、沢辺や沼地の杜若は妖しくも美しく、
「こちらへおいで」と誘っているようだ。
まさかその足元が足を取られるような湿地であるとは
気付かずに、あるいは水中の花の美しさに誘われて
昔から命を落とす者が後を絶たなかったとしても不思議ではないのだ。
続く