能を観る時に気を付けなければならないことがある。

 

そこに描かれている事象は、

人間にとって普遍的な何かの「象徴」であることが多いということ。

表面的な物語を追うだけでは、その能の言わんとしていることを
充分に受け取れないことがある。

 

そして能は、現代に生きる私たちとは

違う時代につくられたものであるということ。

 

私たちは、井戸から湧き出る水が

地下の水脈によるものだということ

地球は丸くて宇宙の中に浮かんでいて

同じように丸い星がたくさんあって

空で輝いているのはその球体たちなのだと知っている。

 

人類が特別な存在なのでもなく、

宇宙においてよくある生命体のひとつに

すぎないことも知っている。

 

「自分」という存在の意味を見出したいという

個々の欲求こそが、種の保存に通じるので

それがもともと用意されたシステムなのだ

ということも知っていながら、

そのシステムの中で精いっぱいに生きることしか

できないことも、用意されたシステムで

 

そのことは、科学によって解明された事実を

より多く知っている私達よりも、

 

己の生命が森羅万象に大きく影響を受けたであろう

時代の人々のほうが、実は本質的な宇宙のシステムを

深く認識していたかもしれない…

 

さて、能において「井戸」は何の象徴とされるだろうか。

「井戸」が重要なモチーフとして登場する能は

「井筒」のほかに、「玉ノ井」、「野守」がある。

 

「玉ノ井」は、海幸彦、山幸彦(天皇の祖先神)のお話。

龍宮の姫は聖なる水を汲みに来た井戸を介して

井戸の傍の桂の木(月の象徴)を伝って海底に降りてきた

山幸彦と出逢う。

大阪市 大海神社の「玉乃井」

 

「野守」は鷹狩をしていた天皇が見失った鷹の居場所を

春日野の野守の老人が教える。

実は老人は野を護る鬼神で、

全ての真実の姿を映す「明鏡」を持っていて

この井戸の水鏡こそが、その「明鏡」かもしれない、という話。

奈良 氷室神社の「鷹乃井」

 

余談ではあるが、むしろ現代人には

理解しやすいかもしれないので記しておこう。

この「鷹乃井」をモチーフとして、

アイルランドのノーベル賞受賞作家、W.B.イェーツが戯曲を書いた。

 

『鷹の井戸』1916年初演。

干上がった井戸を守る、鷹のような女。老人はここで40年間野営しており、

時々井戸に湧き上がる奇跡の水を飲もうと待っている。

水が不死をもたらすという噂を聞き、クーフーリンという若者がやって来る。

老人はクー・フーリンに、自分は人生を浪費してしまったという。

老人によるとこの鷹は不満と暴力の呪いを抱えた

超自然の生き物であるという。その妨げにより井戸の水を飲むのは

至難の業だと。井戸の守り手が踊り始め、井戸から水が湧き起こる。

クー・フーリンは鷹の女に魅入られ、老人は眠りこんでしまい、

2人とも水を得られない。 クー・フーリンは女軍との戦いへと出立する。

 

『鷹の井戸』はその後日本に逆輸入され、

新作能『鷹姫』として現在も演じられている。

 

                          つづく

 

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