先週末、夜。

サンベエを乗せて目的地に向かってた時、

片側3車線の真ん中、交差点に差し掛かったその時

左折レーンの車がいきなり私の前に出ようとした。

あぶない!!!

ブレーキを踏み込む。あかん、ぶつかる…


覚悟した。

けれどウインカーを出さなかったその車は止まり、

私の車は急ブレーキで つんのめったけれど

すんでのところで衝突は免れた。


「うっわ、怖かった…

間に合わんと思った。良かった…」


そういえば…この子はまだ生まれてなかったけれど。





まだ三重に住んでいた17年前のその日、私はひどく疲れていた。

冬休みが終わるギリギリまで帰省していたので

小1イチコの始業式だったその日の前夜、学校に持たせるものをチェックしたり

2歳のニイスケの世話などがあり睡眠を十分にとれてなかった。

始業式でイチコはお昼前に帰宅したから、ほっと息つく間もなく昼食準備…。

 

 


夕方、イチコのピアノレッスンにニイスケと2人後部席に乗せて車で向かう。

 

帰省している間に届いていた、私が出してなかった人への年賀状を

帰りに出さなければ…。

 

レッスン時間の30分間、車で仮眠したかったけど、できなかった。

 

 


帰り道。

 

 

もう少し先に、郵便局があるな。

 

…あ、でも、反対車線だし駐車場狭くて入れにくい…

 

 

そう思いながら郵便局の前を通過したことは確かに記憶している。

 

 

その郵便局から数十メートルのところで

私の車は街路樹に衝突した。

 

 

上下転覆した車の中ではっと我に返り、2人の子どもの名前を叫ぶ。

「…イチコ、ニイスケ、大丈夫か?!」

 

「ママ~!」泣き声を出すイチコ。

 

視界が白く靄状になっている。

煙? 火が出る・・・?

ベルトを外し、頭からずり落ちながらドアを開け、後部座席の2人を大急ぎで助け出す。

後続の車の人たちが手伝ってくれた。

 

 

煙かと思ったのはどうやらエアバッグが膨らんだ時の粉?だったようです

 

私の車がぶつかった街路樹は、折れて倒れていた。

少し離れたところで、おばあさんと子どもが呆然として私たちを見ていた。

 

 

…ああ、あの人たちを巻き込まなくて本当に良かった。


街路樹は、コンビニの前。

もしこの木がなかったら・・・。

 

 

 

寒空の下、警察が来て、救急車が来て、

私たちは病院に運ばれた。

奇跡的に、私は膝のかすり傷と打撲のみ、子ども2人は無傷だった。

でも、事故の際ぶつけたのかどうかわからないが、私はその後、酷い頭痛に悩まされ続けた。

一生この頭痛を罰として背負っていくのか。 もう、それでいい・・・と思っていた。

(幸い、3か月くらいで治りました)

 

 

あと10cm、地獄の入り口がずれていたら。


私か、誰かがこの世から去っていたかもしれない。

 

 

 

 

 

愛情深いが心配性の母はずっと、私が車を運転することを反対し続けていた。

「危ないから やめて。」「あんたが咄嗟に、器用に判断できるわけがない。」


私、ここでも名前呼んでもらってないな…

 



帰省の際、

大阪と違って車社会だから目的地が、駅から徒歩圏内ではないことなど普通。

そんな中で子ども2人を連れて歩くのは、雨の日など泣きそうなほど辛いこと。

母に、車を運転したいから許してほしいと頼んだ。

 

母は、

「だからあんたが三重に行くのは嫌だった」とか

因みにオットは母が持ってきた見合い相手です

「もっと便利なところに引っ越しなさい」「いつまで田舎に住んでるのよ」とか

「タクシー使ったらええやないの」など

タクシー、乗りたい時には配車頼んでも出払っています

それを言われても…なことを散々言ったのち、背中を向け、寂しそうに

 

「もうお母さんには、子ども(私)がいなかったと思うことにする。」

 

と、突き放すように言った。

 

 

 「──なんでそんなこと言うん?

そんな、

起こってほしくないことを言わんといて。」

 

ショックで、そう返すのが精一杯だった。涙が滲んだ。

 

 

 

その件に関しての会話はそこで終わり

気まずいまま、翌日 私は三重に戻り、

 

 

事故を起こしたのは、

その会話から1年経つか経たないかの、1月の夕暮れだった。

 

2歳のニイスケが大きめの車のおもちゃの、上下をひっくり返して

おもちゃと同じ高さの目線でそれを見つめている写真が残っている。

 

 

 

去年の秋


母との関係で不安定な気持ちをなんとかしたくてカウンセリングを受けた時

私がこの事故の顛末と、その前に母と交わした会話を伝えると、

カウンセラー氏はこう仰った。

 

「その事故はある意味、お母さんの言葉と

あなたの言葉の、両方を実現した事象ですね」

 

 

母の「自分に子どもがいなかったと思う(私がいなくなる予言)」と

私の「願ってないことを言わないで(私は死んだりしないよ宣言)」

その危うい力関係の、ほんの少しだけ私が優った──

 

 

いや、母に普段逆らえなかった私が優ったのではない。

 

 

神さん仏さんが瞬時に力を合わせて

私をこの世に押し留めた。そうとしか思えない。

 

 

 

本来なら、私はあの時から神社にお参りするべきでしたね。

言い訳になるけれど、車が廃車になり

日常の子連れ移動がより困難な生活で、そこに心を馳せることはできなかった。

 

 

 

その数年後 家庭を2つにぶった切り、Uターンして母の近くに住み

私の子どもの進路を巡って、母との関係がますます緊張感を孕みだした一昨年の夏の日、

喉の乾きを潤すような気持ちで、初めて産土神社を訪ねた。

大阪梅田のはずれのその神社は全く私の記憶にはなかったし、

私の生まれた病院も移転しているのだが、

歓迎されているような温かい空気を感じた。

 

今も御神木がすぐ、瞼に浮かぶ。

 

 

そして実家のあった場所の氏神さんにも。

私のお宮参りや七五三は、そこだった。

里帰り出産したイチコの産土神社にもあたる。

 

父と行ったのはおそらく7歳の七五三が最後だったはずだが

行くと、父に会えるような気がする。

 

 

 

今の住まいの氏神さん。

「氏神様」に参拝するようになった初めての場所。

引っ越してきたのは7年前なのに、ご挨拶は一昨年だなんて

遅すぎて失礼いたしました…。

 

 

そして、心惹かれる、各地の神社。

 

まっててくださいね



昔も今も

私が言ったことが母の意向に沿わないと責められ、

私は詰問されると言葉が出せなくなり、いつしか

話し始めがかすれて声が出しにくくなった。

 

でも母を恨みたくない。

父が亡くなって、泣いている母の背中をさすり続けたことを

今も覚えている。

私は母を安心させるために生まれたんだ、きっと。

──そう自分に言い聞かせてきた。

 

 

子どもの頃から、母が気に入らないことをしたら私は

謝るまで何日も無視され、口を聞いてもらえなかった。

 

大学に進学し恋人ができたが

デートの数日前になると母の顔色を伺い、

出がけは過敏性腸症候群でトイレに駆け込まずにいられなかった。

 

結婚して家を離れたが

母からは平日毎日、電話がかかってきた。

夕方5時に帰宅してないと詰られた。

早く帰って子どものために夕飯を作れ、と。

それはUターンして、25年ぶりに旧友と再会した日の夕方も、スマホの中から同じ声がした。

 

もう、こんなトシなのにね

 

 

それでも

どこかに、泣いていた母を守らなければならない気持ちがある。

しゃがむ母を背に仁王立ちして「ダメ!」と庇っている、おかっぱ頭の9歳の女の子。


 

私は、自分の中の

「怒る」という感情をいつの間にか、発動できなくなったのだと思う

 

 

 

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母との関係に苦しみ、

それでも憎むことなどしたくなくて

どこに気持ちを持っていけば良いかわからない遣る瀬無さの中

私はいつしか、神社に行くことで心の平安を求めていた。


──私は、誰のことも、恨んだりしたくない。

普段、口を真一文字にして、ちょっと目を潤ませて

必死で立っている自分を、深呼吸して緩ませる場。


 

「いつも守ってくださって ありがとうございます」

そして、子どもや いつも不調を抱えている母の健康を願っていた。

 


──あれ?皆、自分のことお願いしてるんだ…そうなんだ。

へえ…神さんに、自分の住所と名前を言うのか。。

 

 

そんなことに感心していたけれど

 

 

 

ここ数日

育児サポーター養成講座で「子どもを注意するときに、否定的な言葉を使わない」

という話が出たり


仲間と古事記を紐解いているときに、祈りの話になり

「『祈り』と『念』は違う」と教わったのだが

ひとりが感想のシェアで

『祈り』の反対は『呪い』ですね」

とおっしゃり


いずれも私のこの、下書きしていた内容とリンクした。

 

 

子育てしていても、自分のことでも、心配は多々あるけれど

実現してほしいことを口にしよう。

ことばをえらぼう。

近親者からネガティブな言葉を投げつけられるたび、益々この気持ちが強くなり、

「言霊」を意識するようになっていた。

 


否定的な言葉。

それは、いくら相手を思って発したものであっても

時にはそれが、命を奪う方へ働く…

私はあの時、痛感した。


 

私、20年近く前の母に対峙したあの日、

ちゃんと「自分のために祈る」ことができてたんだ。 よかった。





わたしの 一番好きな花が咲く季節がやってきました。



もうすぐ立春。



置いてけぼりにしていた9歳の私の手をとって

ここから、ますます

わたしとあなたのこころとからだをほぐし、

祈りを込めたことばを磨くために、

怖いことに向き合い

自分の力を試しながら歩いていきます。