私は、絵を描いたり、空想するのが大好きな子どもでした。

ひとりっ子だったせいか、マイペースで

大人の中でのひとり遊びが得意でした。



私の通った某公立小学校は

詳しくは書きませんが(⌒▽⌒)色々ツッコミどころがありました。

卒業式前日、私だけ放課後残され、校庭で延々

「最初に名前を呼ばれるから、大声で返事できるための特訓」…とは名ばかりで

実情は中学受験をした私を懲らしめるための、担任の最後の腹いせ…という

ちょいととんでもない、ロクな思い出のないところなのですが



まあそんな校風の中で(どんな校風やねん)


4年生の時に担任に就かれたW先生のことは忘れられません。



本来なら担任とクラスは2年持ち上がりですが

3年の時の担任が年度末に職場結婚したため

4年時は担任が替わったのです。


ベテランの…うーん、50歳くらい?の女性で

(子どもの頃の、大人に感じる年齢ってあやふやですね)

厳しさの中、それぞれの児童の良さを見つけて評価してくれる温和な先生でした。



色画用紙をA5サイズほどに切り、先生が絵を描いた「表彰状」を頻繁に

クラスの児童に渡しておられました。


・すすんで掃除をしてくれました。

・今月、忘れ物をしませんでした。

・プリント配るのを手伝ってくれました。

… …


もちろん私には、そんな表彰状は宝物でした。

家で何度も眺め「これで5枚目だ〜」などと

喜んでました。

おそらく、大抵の児童はそうだったのでは。 

 




注意深く見て気に留めなければ押し流されていくような

そんな1人1人の児童のひとコマを、W先生は讃えてくれました。

不公平にならないよう、

どの児童にも同じ程度に行き渡るよう、細かな気遣いもされたはず。

「学校の先生の仕事量」を思うと

それは大変な作業だったと思います。



私たち児童は、先生の表彰状欲しさに

「ちょっといいこと」をやってみたり。


「お前らそれ、

ヒョーショージョー欲しいからやってんやろ!」と揶揄する子もいたり爆笑



小4といえば、だんだん気難しくなる学年ですが

クラスは明るく、積極的なムードがありました。





さて私は

学校生活は何とかこなせてましたが

おかっぱ頭で体が大きめ、ややぽっちゃり

まだ鈍臭くて体育が苦手で、引っ込み思案な子どもでした。




自主勉強ノートの

漢字練習や理科の図の模写などの余白に、

小学生新聞にあるような連載小説 " もどき "(挿絵入り)や

自作の詩をよく書いてました。



W先生はたいそうそれを褒めてくれ、

ある日私に、詩を清書するように仰いました。

どこかのコンクールに応募してくださったようです。

その後の報告はなかったので「かすりもしなかった」という奴ですね


今もその詩の題を覚えてます。

「光のこどもたちのうた」

そりゃもう、先生に褒められたわけですから

9歳の少女は嬉しくてなりません。

余白に書いてたはずの詩は、ノートのメインを占めるように。


おそらくW先生は

それぞれの子どもの中の原石を見つけ

何かチャンスがあれば、井の中から

大海に投げてみてくださったのでしょう。



私は

父が夏休みに何度目かの入院をし

通っていた塾は休学、

母は付き添いのため病院に。

私の世話は、祖母(母の母)が泊まり込みで担ってくれました。

78歳で、いつ終わるとも知れぬ9歳の孫の世話。きつかったことと思います。

そして夏休み明けに、父が亡くなりました。



お葬式が終わり、母の隣に並んで頭を下げて挨拶していると

来てくださったW先生とクラスの子たちが、神妙な顔をして帰って行った。

ちらちらと私を見て、小さく手を動かす友達。

私は、

頭を下げたらいいのか

手を振ったらいいのかわからず

早く通り過ぎてくれないかと願ってたのを覚えてる。




いろんなゴタゴタがあり



学校ではさほど仲良しでもない子が、「なぜか」

急にプレゼントをくれたり


複雑な心境…とひとことでは書き表せないけれど。





そんなある日、

家の近くの商店街の雑踏で

父に似た人を見かけた。

その時の心情を、詩にして

自主勉強ノートに書きました。


W先生からのコメントは

「先生も、先生のお父さんが亡くなった時に

そんな気持ちになったよ。わかるよ。」


といった内容でした。

私は、



頭を殴られたような気がしました。




悲しいのは、私だけじゃないんだ。



「思い上がり」という言葉を実感した

おそらく初めての体験でした。

それ以来

私は詩を書けなくなりました。






差別をしない、優劣をつけないということを

徹底して掲げていた小学校の方針に

W先生はそぐわなかったのでしょう


その年度末

別の市の小学校に移られました。

あの当時から既に私たち児童は

「W先生は左遷された」と認識してました。




異動先の小学校までW先生に会いに行きたい、

と何度思っただろう。

楽しみながら

児童の喜びのためになさったことがそのような結果になり

W先生はどんなお気持ちだっただろうか。

いやきっと、そのような処分になることを

納得ずくでされていた気もしています。


遠い昔のことですが、

異動先の小学校でもきっと

W先生はご自分を貫いておられただろう、、

いや、そうあってほしいと思います。





ちょっと今



これまでやってきたことが

全て思い上がりだったのかと


自分の良さだと信じてたことが

ただの鈍刀だったのかと

膝がガクガクしそうだけれど


なんだ遠い昔にもあったことか、と

持っていた3本目の刀で、再び自分をぶった斬る





大地にしっかり足をつけて

天から降り注ぐ光を感じて


「おちついて!」と胸に手を当て

深呼吸して、歩いていこうと思います。