「自主的」と言う言葉を聞くと、誰からも強制されず自分の意志で取り組むといったイメージがあるかと思います。「自主的」といっても、本当の「自主的」なのか形式上の「自主的」といった形を取っているのかはしっかりと見極める必要があります。

 本題に入ります。共産党は東京知事選挙において蓮舫氏を「自主的に支援」としています。

 問題は、「自主的」と言うのが本当に自主的にしているものなのか、集団圧力(暗黙の了承)があって「自主的」いう体裁をとっているものなのかです。

 連合関係者の私から見れば、共産党関係(全労連・民主青年同盟・自由法曹団といった市民団体も含む)は集団圧力(暗黙の了承)があって「自主的」いう体裁をとっているにすぎません。

 例えば、京都市職員労働組合・岡山市職員労働組合・広島市職員労働組合・松山市職員労働組合は、「支持政党の自由」・「政党からの独立」を掲げています。(全労連傘下の自治労連に加盟)

 ところが、全労連の幹部クラスになると日本共産党の後援会の役員もしくは共産党傘下の市民団体の構成員であることが多いです。

 彼らの組合機関紙を見ると、共産党が掲げている政策をそのままコピペしているものが多いです。県庁・市役所では共産党の地方議員が部長・課長にしんぶん赤旗の押し売りをしており、私もその場面に遭遇しました。

 彼ら共産党地方議員が「部長や課長がしんぶん赤旗を自主的に購入している。」と嘯いていることに強い憤りを覚えています。

 

 不特定多数が閲覧するブログですので、詳しいことが記載できないのですが、「自主的」と言う言葉に惑わされず、実態がどうなのかを見て判断されることを勧めます。

 

 最後に、共産党がしれっと押し付ける方法について、加藤諦三氏の書籍で述べられているので紹介します。

「私の父なども『俺くらいいい父親はこの世界中にいない』といつも言っていた。その理由は『俺は自分のことはどうでもいい、すべてお前たちのために生きている』からということだった。そして何かあるとすぐに『俺はどうだっていいんだ』と言っていた。

 そこで子供である私は、父の自己中心的な搾取的願望を、私の願望として実現してもらうべく頼むしかなかった。そこで父は『がそんなにして欲しいなら嫌だけどしてやろう』と恩着せがましくするのだった。」

 

(「」の部分は加藤諦三氏 人生の悲劇は「よい子」に始まる 見せかけの性格が抱える問題

 7章 無私の親とよい子の地獄 ”無私の親のエゴイズムから引用)