細田守監督の「バケモノの子」は、2015年の夏休みに公開されたアニメ映画である。


アニメ映画化を前提として、細田監督が書き下ろした原作小説が、角川文庫版と、ルビを振って小学校高学年に読めるようにした角川つばさ文庫版で出ている。


原作がアニメ化されたのではなく、オリジナルアニメが先、なのである。

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「バケモノの子」は、孤独な少年と、バケモノの心の絆を描いた作品だ。

主人公の九歳の少年、蓮は、厄介な子としてうとまれて、どこにも受け入れられない不安と呪詛を「大嫌いだ!」とはき出したとき、異界への扉が開いた。一方のバケモノ、熊徹は、強さは誰もが認めても、はみ出し者の、あぶれ者だった。

傷つき、心を閉ざしたふたりが出会うことで、互いを必要とする喜びを知り、生き生きとした命を取り戻していく。


オリジナルアニメとして構想されたときから、「バケモノの子」は、児童文学的な「命への敬意」を持つ作品だったのだと思う。


アニメは何と言っても絵だ。映像だ。イメージの奔流に身をゆだね、感じればいい。
「バケモノの子」では、渋谷と重なり合うようにして存在する異世界「渋天街」が、アニメならではのぞくぞくするような迫力で描かれている。行き交う獣面のバケモノたち。オレンジ色の灯。あやしくにぎやかな露店街。視聴者は蓮と一緒に一気に、渋天街へ引きこまれる。

バケモノ界の宋師の座を争う、熊徹と猪王山の戦いも、迫力だ。巨体がぶつかりあう重い音、飛び散る汗。振り回す大太刀のスピード感がすごい。


蓮が九太と名付けられ、熊徹の弟子となって、八年が過ぎたアニメ後半では、異世界と現実世界の渋谷が交錯していく。
十七歳の九太は、バケモノの世界と渋谷を行き来できるようになり、図書館で、ひとりの少女と出会う。メルヴィルの「白鯨」をテキストに少女から文字を習い、学ぶことの楽しさを知る。

物語のクライマックスでは、幻の巨大な白鯨が夜空をおおう描写が、圧巻だ。
視聴者は蓮とともに、喜怒哀楽を感じ、異世界を見て聞いて体感する。

それがアニメの醍醐味だ。

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原作の児童文庫は基本的には、まったく同じストーリーで、セリフも同じだ。

ただ、小説版では、バケモノの世界の仕組みや成り立ちがきちんと説明してある。バケモノ界で過ごした八年間、九太がバケモノの学校に通っていたことや、八年後の図書館で、白鯨の本を手に取った理由も書かれている。アニメを見ていてわからなかったところや引っかかった部分も理解できた。


アニメは「感じる」、文学は「考える」ことで、自分自身の血肉となる。メディアの違いにはそういう側面がある。
さらに「バケモノの子」という作品自体が、感じることと、考えることの違いを象徴的に表しているように思える。

キーワードとなるのが、少女と出会った図書館という場所だ。バケモノの世界では文字は重要視されない。
「バケモノの子」の語り手である、バケモノのひとりはこう語る。


「人間の世界に行ってみろ。なんでもカンでも文字、文字、文字であふれておる。あの街じゅう文字だらけの奇妙な光景を見ると、ぞっとするよ。人間は文字に支配されたがっているのではないかと疑りたくなるほどだ」


文字が大きな意味を持つ、人の世界。対するバケモノの世界は、文字にならないイメージの世界だ。
バケモノは、文字だらけの人間界を「ぞっとする」と罵倒している。しかし、主人公の蓮の最後の選択に、作者である細田監督の、隠されたもうひとつのメッセージ……文字が人を人たらしめている……があるように思える。


表題の問い……アニメ発の児童文学はありか?
当然、ありだ。これからもオリジナルアニメ発の、素晴らしい児童文学作品が多数生まれてくることを期待したい。