(2004年5月30日に個人サイトにアップしたエッセイを改稿したものです)


 わたしの父は、「子どもは厳しくきっちりしつけるべき」という考え方の人だった。


 理由は明快。子どもを社会で生きていけるようにするのが、親の役割だから。子どもは善悪を知らずに生まれてくる。だから、ものの道理がわからぬうちは、厳しくしつける。そして、ある程度の年齢になったら、子ども自身の自主性と個性を認め、一人の人間として扱う。


 わたしには、その考え方が論理的に正しく思えたし、だからこそ、ある程度の年齢になってから、一向に自分を一人前の人間として扱ってくれない社会……学校の校則、規制などなど……に反発しまくり、結果として高校中退してしまったのだが……それはともかく。


 当時、うちの親戚に、やたらめったら甘やかされて育っているお子様がいた。家で甘やかされているものだから、親戚であるうちにきても、わがまま放題である。父もわたしも、この先どうなることやら…と、お子様の将来を心配していた。


 ところで、江戸の子どもも、やたらめったら甘やかされ放題だったらしい。幕末の江戸にやってきた外国人たちにとって、日本は子供たちの天国に見えたというのである。決して泣かせきりにしたりせず、常におんぶし、抱っこし、6,7歳まで母乳を飲ませ、大人は子供をあやし笑わせる事が幸福でたまらないかのよう。


 ことわっておくが、江戸時代にも、児童虐待はあった。貧困が原因での間引き。捨て子。子供の売り買い。陰湿な猟奇事件もあったし、氷山の一角としての折檻死の記録もある。実態は決して子供の天国などではなかった。


 ただ、現実にはそうでなくても、少なくとも理想としては、子供をとにかく可愛がることがよしとされた社会であったのだと思う。


 そういう社会で育った子供は、どういう大人になったのか?


 15歳という、現代なら少年少女の年で、元服し、武士なら厳格な暮しを余儀なくされる。町人なら、厳しい修行時代が続く。職人も同じく。おとなになった彼らは、そうあるべきという社会のわくにきっちりはめられていく。やりたい放題の子どもたちを、受け入れるそういう形での社会があったのだ。


 では、子供のうちに厳しくしつけ、ある年齢以上の自主性を重んじるという、西欧社会のようなやりかたは間違っているのだろうか? そうではない。泣いても泣いても抱いてもらえない子どもは、早いうちに自分の欲求が必ずしもかなえられない事を学び、そのうえで、自主性を重んじる西洋社会の一員となる。これはこれで問題ないのだ。


 甘やかして、のちに厳しい枠にはめる。

 厳しくしつけて、のちは自主性に任せる。


 そのどちらかが正しいかではなく、子ども時代を終えた彼らを受け入れる社会の仕組み、形がちがっていたのだ。


 ひるがえって、現代はどうだろう?  わたしがそうだったように、ある程度の年齢になっても自主性がみとめられない社会に、適応できずにいる少年少女は今でもいるに違いない。しかし、一方では、甘やかし放題で育てられた子供が、競争や順位づけをせず自主性を重んじるという名ばかりの放任教育に、教室を荒らしまくり、学校を出た後は、自意識肥大のパラサイトシングルになっていくという現実もあるだろう。


 今の子どもたちがさらに子育てをするころの近未来の日本は、どういう形の社会になっているのだろうか。


 ところで、前出の、やたらめったら甘やかされて育った親戚のお子様は、その後なかなかの好青年になっている。親戚内でのうけもいいらしい。よかったよかった。


 最後に、あまりにも微笑ましいので、江戸時代の曲亭馬琴の読本「無想兵衛胡蝶物語」の一シーンを引用しておこう。


「ふところの内、ひざの上に尿をされても、腹をたちたまわず、おかしくもないことに、げたげた笑い、寝るときにねんころと唄わせ、手をあげて胸をたたき、足をあげて、あごをけったり、髪をむしったり、乳房に歯型をつくるにいたりて腫れ痛むことあれども、その無礼をとがめたまわず(中略)さていとまあるおりは、手打手打といっては手をうたせ、ととのめととのめと言っては手の平をつかせ、あたまてんてん、けえぐりけえぐり、さまざまの芸をしつけ、ここまでござれは、あまざけと褒美をさだめ、転ぶをつよいと誉め、泣くをよい子と誉め…」


――「江戸の少年」氏家幹人 平凡社 より引用


 バカである。


 けれど、手放しで子どもが愛される光景は、あたたかい。



 読んでくださってありがとうございました。


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