さて、やむを得ずへりくだっているので、あなたがたは幸いである。
人は時々、やむを得ずへりくだっていても悔い改めようとするからである。
そして、悔い改める人はだれでも、必ず憐れみを受ける。
そして、憐れみを受けて最後まで堪え忍ぶ人は救われる。
わたしは、あなたがたがやむを得ずへりくだっているので幸いであると言ったが、御言葉のために自ら進んで心からへりくだる人々は、なおさら幸いであると思わないか。
まことに、自ら進んで心からへりくだり、罪を悔い改め、最後まで堪え忍ぶ人は祝福を受ける。
まことにこのような人は、非常に貧しいためにやむを得ずへりくだっている人々よりも、なおさら祝福を受ける。
したがって、やむを得ずへりくだるのではなく、自らへりくだる人々は幸いである。
いや、心をかたくなにすることなく、また御言葉を知るように仕向けられたり、知るように強いられたりして初めて信じるということではなく、進んで神の御言葉を信じ、バプテスマを受ける人は幸いである。
まことに、もし天からしるしを見せてくれれば、それが確かなことが分かるから信じようという人々が大勢いる。
さて、わたしは尋ねる。
これは信仰であろうか。
見よ、わたしはそうではないと答える。
もし人がある物事を知っているならば、それを信じる理由はない。
すでに知っているからである。
さて、神の御心を知っていながらそれを行わない人は、ただ信じているだけで、あるいは信じる理由があるだけで背いてしまうよりも、どれほどひどいのろいを受けることであろう。
このことについて、あなたがたは判断しなければならない。
見よ、わたしはあなたがたに言う。
両者はそれぞれ同様に裁かれ、人は皆、各々の行いに応じて報われるのである。
さて、信仰についてわたしがすでに語ったように、信仰とは物事を完全に知ることではない。
したがって、もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実のことを待ち望むのである。
さて見よ、あなたがたに言う。
このことを覚えてほしい。
それは、神は御自分の御名を信じるすべての人に憐れみをかけられるということである。
したがって、神はまず初めに、あなたがたが、まことに神の御言葉を信じることを望んでおられる。
さて、神は天使によって、人々に、まことに男ばかりでなく女にも御自分の御言葉を伝えられる。
それだけではない。
知者や学者を辱める御言葉が、これまで何度も幼い子供に与えられてきた。
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さて、信仰についてわたしが言ったように、信仰とは完全に知ることではない。
わたしの言葉についてもそのとおりである。
信仰が完全に知ることではないと同じように 、あなたがたはわたしの言葉が確かであることも最初から完全に知ることはできない。
しかし見よ、もしあなたがたが目を覚まし、能力を尽くしてわたしの言葉を試し、ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば、たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。
わたしの言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで、その望みを育ててゆけ。
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