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新しき世界へ

私たちは母なる地球の元に生かされて存在しています。
宇宙、自然、生命から「調和」「秩序」「法則」を学ぼう。

多くの人々は真理など求めていない。

むしろ真理の光は敬遠されると言っていいだろう。

なぜなら真理の光は自らの醜さや、やましさを浮き彫りにするので居心地が悪いからだ。


偽物の光には安心して多くの人々が群がる。

なぜなら自分を変える必要がなく、中身が空っぽであっても

自分たちに心地良い夢を見せてくれるから。


この世が全てであり死んだら終わりなら、偽の光でもいいんだけど、もし死なずに生き続けるとしたらどうだろうか。

その時に頼りになるのは真理の光のみである。


南無阿弥陀仏とは、私は阿弥陀如来に帰依しますという意味だよね。


帰依するということは私の命を阿弥陀如来に捧げますということ。


阿弥陀如来の御心(全ての命に対する慈悲)に私の命を捧げます。

これが南無阿弥陀仏ということ。


現代語に分かりやすく表現すれば、南無阿弥陀仏とは

「私は全ての命に対して敬意を払い、真善美を探求し他の生命活動に奉仕をするために活動します。」

このような感じになります。


南無阿弥陀仏と唱えれば救われるというのは、間違っているかあるいは、その時代の方便だったのでしょう。


南無阿弥陀仏の御心を生きることによって結果、救われることになります。

救われるのを目的とするのは邪道であります。

どんな征服が 大地の自由に耐え得よう

そしてどんな略奪の手を 迎える握手の手があろう

獲得は 常に提供のあとにしか来ないのだ

父親がわが子を愛し その小さな独立国に

毎日 援助物資を送ったように


時間の胃のなかでは すべてが未消化のまま眠っている

なぜなら 彼らは生きてまばたいたからだ

わたしたちに映る遠い星座のように

彼らは今 どこかの空間で光っている


ひとつの生が絶望という言葉を思うとき

それはどこに存在する言葉であろう

ごらん 死に絶えた水が蒸発して雲となり

雨となって ふたたび大地と交わるように

生はいつまでも 生のそとを知らないのだ


悲しみを みずからの手で支える者こそ

よろこびを受けとる者ではなかろうか


けれども自然のなかに立ち 樹々の梢や鳥の飛翔を見つめるとき

遠いところからのように ふいに素朴な力の雫が落ちてくる

すると心は爆発し 世界がまったく美しく全景の隅々まで姿を表わす

そのよろこばしい空間は 現前の空間をどこまでも押し広げて咲く球状の花火のようだ


                       石橋千濤詩集より抜粋


  都会はいつも


都会はいつも 高層ビルや高架線や自動車の群

どこを向いても考えこませる風景ばかり ー

いったいこの無機物の世界から どんな命が咲くだろう

石や鉄やガラスから 何を歌えばいいだろう


わたしはこれらのものに対し 常にこぶしを固めなければならない

さもないとわたしの大地は すぐにも窒息してしまうのだ

しかしそれにもかかわらず 僻地にのがれたところでなんになろう

ひとたび成った風景は すべてのひとの心の風景でもあるからだ


そして風景が 野ざらしの瓦礫のようにうち捨てられていることは われわれの心がその再建を

もう思いだすこともできないほどこわれているということだ

快楽と空虚との不安なはざまに すでに久しく疲れた心よ

おまえのなかにもしも自然の回復を 希求し熱望するものがあるのなら 知らなければならない

欲と意欲はひとつの場所で共存できることのないことを ー

たとえ肉と心は入り乱れても その主従の位置が代わることのないことを

 

                       石橋千濤詩集より転載


何の光も輝かない。

人の目には何の光も見えなくする天幕(シャッター)が存在する。 

                         

私も似たような体験があるので公開したいと思います。


私は過去世において、神様の教えを広めるという役割を与えられて転生したのですが、結果として多くの人を苦しめるという人生になってしまいました。


その結果、誰もいない何もない空間にひとりぼっちにされ、身動きひとつ取れずに凍結されてしまったのです。


凍結されているので死ぬこともできません。

ただ身動きひとつ出来ずに存在しているだけです。


それはこの世のどんな地獄よりも苦しいものです。


なぜならこの世の地獄はどんなに辛くても、変化してゆき死ねば解放されるからです。


1年・・10年・・・100年・・・・・・・・・・・・


その永遠の苦しみは多分、体験してみなければわからない

でしょう。

その時、人はどうするでしょうか。


多くの人は自分が信仰している神様に助けを求めると思います。


私も「私はアルファでありオメガである」といわれる、全てであり永遠であられる万象万物を創られた唯一なる創造主(神)に助けを求めましたが、私は自分は悪くないと言い張っているために許してもらえません。


人間は勝手なもので、全てを自分の都合のいいように解釈します。

都合の悪いことは無意識に見なかったことにしたり、勝手に記憶を作り変えたりもします。


公平な判断など人間にはできません。


万象万物の心の内まで全てを見通す神様の前には、人間は頭を下げるしかありません。


強情でわがままな私でしたが、ついに泣き崩れて神様に許

しを請いました。


そこまでの記憶しかありませんが、 今生はそのための償いの人生だったと思っています。


私はそうした恐ろしい体験を積んでいる者なので、神の御神前では恐(かしこ)み恐(かしこ)みをしています。

私にはとてもスピリチュアルを標榜する人達の感覚にはついていけません。なんの恐ろしさも体験されていないからでしょう。私など、とても神に対する不敬など犯すことが出来ません。

                      紫色  神言会より転載


私も同感です、自分の命よりも自分の良心を裏切ってしまう神に対する不敬のほうが、重いということをよく知っているものであります。