On the sunny side of the street | 愚僧日記3

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知外坊真教

過去のネットの口コミの中に山門を手入れしてないとか、悲しいとか書かれていました。

そもそも構造的欠陥を抱えていたあの山門は、180年近くも建っていたことが奇跡的でした。確かに四隅の電信柱の支えや、屋根裏に鉄骨を入れて修理されていたことによって支えられていた山門でした。

しかし、あの山門のそうした修理は、文化財の修理ではなく、たんに耐久性を維持させるための修理でした。そのことは、解体前に調査して頂いた宮大工さんによって専門的にも明らかにされました。

私もあの山門を維持保全することを考えました。しかし、そのためには数千万円が必要でした。その資金調達を考えると、到底お寺の力で無理でした。かといって、100軒未満の檀家さんに協力を仰ぐという方法は、私の頭の中には全くありませんでした。もちろんクラウドファンドでも。

でも、おかしいんですよね。仏教は物事に執着するなと言う教えは普遍的にあります。ところが、こと日本仏教では古い物は守れといい、無条件とも思えるほど古い物はいいものだと言います。それは偉い人ばかりでは無く、若い人も言うから変。

で、誰もが京都に行きたいと言う。なぜ?古い伝統を守るところだから? 僕はそれは違うと思うんだよね。京都って、新しい物を積極的に受け入れて、新しい文化を変化を怖れずに創造してきた。

仏教のみならず、お茶も、建築も、祭も、創造的だった。祇園祭だって、変化を怖れずにしてきたから、今まで残っている。そういうところを見ずに、ただ古いものはイイものだと考えている人が実に多い。

仏教は、仏教は物事に執着するなと言い、執着すると苦しくなるとも言う。それは仏教の建築物にも言える。山門を残すことに執着すれば危険があったし、それを残そうと檀信徒の理解を得ずに大金を集めると、少なくない人の顰蹙を買う。

それよりも、壊して新しい道を拓けるよう努力する方がイイ。

実際、山門跡の参道は、山門はなくなったけれど、明るい気持ちのイイ道になった。良くお参りに来る方は、車から降りて、この新しい明るい参道を味わって境内に入られる。新しい参道は、ホントに気持ちのイイ道になった。


On the sunny side of the street だね