傷だらけの女性

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 初めて彼女の腕(かいな)を見たときの驚きを忘れることはできない。

 私が勤めていた喫茶店は、表参道の大きな吹き抜けのあるビルにあり、八十席ほどもあるテーブルでは入れかわり立ちかわり表参道に相応しいいでたちをした男女が待ち合わせやお喋りに興を咲かせていた。

 高校の授業が終わったあとや土日に、私は週に四、五日ほどここで働いていた。応援指導部にいた先輩に誘われて入ってみたが、たいそう賃金が良かった。私と比較にならないくらい逞しい体躯の先輩は二年のときに留年をして同じ学年になっていた。そんなゴツい先輩がお洒落な表参道の喫茶店などまったく似合わなかったが、話を聞くに先輩の父親とそこのオーナーが知り合いとかで、頼み込まれて働いていると言う。当時はバブル華盛りで高校生と言えど時給千三百円など平然と支払われるほど人手不足の時代だった。

 私より先に勤めていた人はすぐに辞めていき、私をここに紹介した先輩も程なくして別の店を出店するからとオーナーに言われてそっちへ移っていった。その頃はまだフリーターという言葉はなかったように思うが、定職につかない三十過ぎの女性三人と私だけがローテーションを組んでこの大きい店のフロアを切り盛りしていた。厨房にはヒゲのシェフがいて、高齢のためかいつももたもた調理している姿がユーモラスだったが、問題は厨房は客席から丸見えなのである。いつもあのシェフ危なっかしいなあと思いながら配膳していた。

 アルバイトを始めて一年ほど経ったころ、マネージャーの女性から「面接希望者がいるから、あんた見てきて」と言われて通用口に立っている彼女の姿を見て面食らった。というより、焦った。

 おずおずと「先週、面接の申し込みをしたのですが」という彼女は、年のころ二十歳ぐらいかと思ったが、履歴書を見ると二五歳と書いてあった。幾分小柄なのと、夏らしくちょっと身奇麗な水玉のノースリーブを着ていたから若く見えたのかもしれない。しかし、それ以上に、彼女の顔と、腕が気になった。

 明らかに、どこかにぶつけたか誰かに殴られたかというような左目のうえの青あざと、どうやったらそういう傷を受けられるのかさえ判然としない腕についた無数の傷。正直言うと、心臓が止まるかと思うぐらい、凄惨な光景だった。

 彼女の採用は、決まっていた。というのも、それだけこの店は人手不足だったのである。厨房もフロアもてんてこ舞いで、昼となく夜となくせわしなく動き続けなければならなかった。誰でもいいから、バイトの応募が来たら儲けもの、すぐにでも働いてもらえるよう伝えておきなさい、とオーナーからは言われていたのだ。

 しかし、彼女は学生の私から見ても異常だった。おかしいと思って、その傷はどうされたのですか、と訊いても優しげに微笑んで特に語ろうとしない。大丈夫なのだろうか。そう思う気持ちだけが先に立って、面接どころではなかった。

 事の顛末をオーナーに話したところ、それは客前に出せないから、あざが治るまでは厨房で働いてもらうよ、と暢気なことを言っていた。腹の中では「どう見てもヤバい女性なんじゃないですかね」と思っていたが、口に出すことはなかった。何しろ、その前の週に隣の客がコーヒーをこぼして服にかかったとかで、客同士でつかみ合いになったばかりだったからである。それでもオーナーはロッカー一個空けなきゃなあとかとぼけたことを言っているので、はあ、と答えてそれ以上言及することをやめた。

 日ならず彼女が午前から店に入ることになり、主に授業が終わった午後から働く私とは昼下がりに顔をあわせることになったのだが、顔のあざが治るどころか、頬のところにもあざが増えている。先日面接したとき見落としたのだろうか。いや、そんなはずはない、またどこかにぶつけたのだ。どういう生活をしているのだろう。それとも、亭主に殴られでもしたのだろうか。履歴書には既婚者と書いてあったし、そういうこともあるかもしれないと思ったが、個人的な事情に立ち入るのも申し訳ない気持ちがして何も言わなかった。

 一週間が経ち、何事もなく進んでいったが、私は彼女のことが気になって仕方がなかった。同じくフロアで働いている同僚とも、彼女に何があったのかについて囁きあった。だが、彼女は階段から落ちた、などと言ってまともに答えようとしない。

 その後、彼女が二の腕に包帯をしてくるに至って、さすがのオーナーも異変に気づいた。何か問題があるのなら相談に乗るから、とオーナーが諭す姿を見て、もう少し早く気づいてやれよと毒づいたが、どうすることもできなかった。

 彼女が大丈夫ですから、と言うのでオーナーも引き下がり、夕方のお客ラッシュで混雑する店内を配膳して回っていたところ、別の店舗に行っていた先輩が届け物か何かで店にやってきた。先輩は彼女を見て仰天した。

「姉さん!」

 私も仰天した。あまりにも大きい声で先輩が叫ぶので、店内の視線が全部先輩に集まった。それはそうだ、応援団をやっているのだから地声もでかい。あの傷だらけの女性が先輩の姉なのか? 確か、苗字は全然違ったはずだ。どこか嫁いだのかなと思ったが、詳しいことは分からない私は半ば呆れて事の顛末を見守るほかない。

 大柄な先輩はどかどか走って厨房に入ると、半分泣きじゃくりかけている女性の両肩をがっちりと持ち強く揺さぶって、何かを語りかけていた。いや、語るというよりは、怒号に近かった。吹き抜けの高い天井に声が反響している。客も店員も呆然とガラス張りの洒落た厨房の向こう側で起きている事件を見やるが、あまりにも声がでかいし先輩が興奮しきっていることもあって何を話しているのかさえ良く分からない。。そうこうしているうちに、叫ぶように話していた先輩が、小柄な姉を抱きしめながらおんおんと泣き出した。余談だが、よくブンガク的表現で泣き声を「おんおん」と表現することがあるようだが、あのときはまさに「おんおん泣く」という擬態がこれ以上ないというぐらいにハマっていたことを付け加えておく。

 そこまでは完全に部外者だったのだが、半泣きの顔を修羅の表情にした先輩が私を発見して向かってきたときには、まさかこの寸劇の当事者にさせられるのかと固まりかけたが、先輩は私に大きな声でオーナーはいるか、と聞き質した。事務所にいるはずだ、と答えると、姉をよろしく、誰が来ても表に出さないように、と強く言付けられた。思わず、うす、と答えると、先輩は走って店を出て行った。

 しばらく、私は途方に暮れていた。厨房では、シェフのおじさんに支えられるようにして泣いている先輩の姉が見てとれた。といって、目の前の客は裁かなければならない。軽い服装の客に、いろいろ大変そうだね、と話しかけられた。まあ、場所柄そういうこともありますから、と分かったような返答をしておいた。

 結局、その日は何事もなかった。普通に閉店時間が来て、清掃してシェフも店員も皆終電で帰った。ただ翌日先輩は学校を休んだ。別のクラスなのだが、気になって訪問してみたのである。ああいうことがあったのだから、先輩の姉も辞めてしまうのかな、と心の端っこに引っかかっていたが、まるで昨日のことなどなかったように、私が出勤すると彼女は店で働いていた。こんにちは、と挨拶をすると、普通にこんにちは、今日もよろしくね、と軽やかな声が返ってきた。ただ何となく昨日の事件について言葉にするのが憚られて、ただ私は忙しくフロアを歩き回っていた。

 さらに三日ほど過ぎたが、何故だか先輩と学校で顔をあわせなかった。店のロッカーで着替えていると、彼女がオーナーはどこにいるかと私に訊いてきた。まさか店を辞めてしまうのかと思いながら、おずおずと何かありましたかと問うと、離婚をしたので従業員名簿を変えてもらおうと思って、とのんびりした口調で彼女は言った。言われてみれば、少しだけ、彼女の表情が晴れやかになったような気がした。何となく私も嬉しくなって、その晩先輩の家に電話を入れてみた。先輩は飄然と、いや、たいしたことはないよ、と言いつつも、駆け落ちに近かった先輩の姉は、亭主の暴力癖に苛まれて、かといって実家にも帰れず別居もできず為すがままだったことをそれとなく聞いた。彼女のあざや傷は本当に酷いものだったから、もはや暴力常習犯の亭主だったのだろう。丸く収まって良かったですね、と本心から言って受話器を置いたが、ひょっとしたら、彼女は先輩に助けてもらいたくてあの店で働こうと決心したのかなと思った。

 ほどなく彼女が先輩のいる実家に戻ったのを受けて、オーナーが気を利かせて先輩のいる店に彼女を異動させた。それ以外にも、別のバイトの女性が元彼氏の来店に激昂して熱い紅茶を投げたり、客同士の痴話喧嘩のもつれで騒ぎが起きたら別の客が怒り始め知らない客の間で殴り合いが始まったりと、とにかくいろんなことが起きる店で退屈しなかった。私は問題を起こさなかったが、たいていその場に居合わせて必ず何かを処理しなければならない役回りを負わされることになった。

 その後、私は数ヵ月後に大学進学を機に店を辞め、オーナーは事業を失敗して店を手放したが、表参道にある店は名前を変えて、一部は昔の家具のままで営業を続けている。仕事で表参道を歩くたびに、先輩のことを思い出す。

 よくよく考えれば、彼女の傷や異常な風体を一番最初に見たのは面接した私なのだ。高校生だった私に面接させるオーナーもどうかと思ったが、もし私があのとき彼女のあまりにも明確な異変を慮って採用を見送るよう強弁していたら、彼女はずっと救われずに暮らしていたのかも知れなかった。何が幸いになり、何が救いなのか分からないのが世の常とはいえ、表参道にいくと何とも複雑な心境になる。多くの人が交差する分だけ、不思議な絆というのはたくさんあざなわれているのだな、と。
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