秋に吹くつむじ風のように

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 昔の日記をモチーフに書き直したもの。


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 通っていた小学校が廃校になったのは二年のときである。

 都会の孤島としか言えなかった日本橋の小学校は、私が入学したときすでにどっかの小学校の分校となっていて、全学年あわせて一五人がひとつのクラスにまとめられ授業をしていた。やる気という能力を生れ落ちたそのときから放棄していたとしか思えない校長と、国語から算数からあらゆる授業をやってくれた中年の女教師だけが私たちの親分であった。入学したとき、小学一年生は私しかいなかった。あとは全員上学年で、二年に上がったとき一人も下級生は入ってこなかった。

 いまでも最後の運動会を覚えている。五十メートルの徒競走が直線で行えない狭い校庭で、父兄の参加者のほうが生徒よりはるかに多いというこの催しは、子供心ながら「誰のための運動会か」ということを体現してやまないささやかな思い出を私に残してくれた。最初のうちはやれ徒競走だ綱引きだフォークダンスだと種目を精力的にこなしていたが、なにせ生徒の絶対数が少ない学校である。父兄しか参加しない種目まであった。最後のほうには我が子の活動を写真やフィルムに抑えようと奮闘していた父兄たちも疲れ果て、弁当やスナックを頬張りながら狭い校庭に敷き詰めた茣蓙で胡坐をかきながら歓談する光景は、最後の種目である玉入れに向かう私の目に焼きついていた。

 三年生に上がる最後の授業で、二人いた六年生が卒業すると同時に、中年の女教師が何やらつらそうに学校がなくなることや、学区をまたいで各々別の学校に編入することなどを説明した。あらかじめ学校がなくなって次の公立小学校をどこにしようかと親が思い悩んでいたのを知っていた私は、この宣告を受け入れることについてあまり深くは考えなかった。ただ、教室の後ろに飾られていた「正月」とかそういう習字の張り出しのうえのほうにある、まだ学校にたくさんの生徒がいたころの写真だけがたまらなく悲しかった。

 これを機に、我が家は住み慣れた日本橋を出て中野に引越しをした。生徒がいない学区なだけに、特にこれといって近所付き合いがあったわけでもなく、親父の弟一家を残して生家を離れた。

 新しい学校は子供が大量にいた。というか、めまいがした。同じ学年が五つのクラスに分けられ、ひとつのクラスには何と四八名も級友がいた。私が編入した三年二組は二年のときから”クラス分け”なる再編がなかったために、みなすでに友達のようであった。

 案の定、私に友達はできなかった。

 苗字の順番に割り振られたために私は後ろのほうの席になり、毎朝学校に行くなり席に座り、授業を受け、昼になると給食を食べ、学校が終わるとその足で塾に行くという平凡極まりない毎日を送った。

 塾に通っていたこともあるかもしれないが、勉強はよくできた。何せ前の分校時代は上学年のクラスメートと授業を一緒にやっていたため、事実上の飛び級のような具合であり、すでにつるかめ算や旅人算みたいな初歩の数学に近い代数のようなものを一緒になって解いていたぐらいである。学力という点ではクラスのなかで飛び抜けて高かった。別に誇るでもなく、私にとってはできることを普通にやっていただけだった。

 それもあってか知らない間に「がり勉」というあだ名をつけられ、クラスのなかで目立つときといえばテストの答案が採点され返されるときぐらいである。クラスメートの「すげえ」という驚きはすべて鍵かっこつきのもので、賞賛以外の意味がそこには込められていた以上のことは何一つなかった。

 とくに話すべき友達もできなかった私のいたクラスに、ほどなくして達川という男の子が編入されてきた。私のうしろのところに机が置かれ、先生は「転校生同士仲良くするように」と私に言った。孤立気味の私に対する配慮なんだろうと思ったが、友達を持つという行為そのものに必要や価値を感じていなかった私にとっては苦痛な指示以外の何者でもなかった。

 自分が満足に受け入れられていない現状を見ると容易に転校生がクラスに溶け込めるとも思えなかった。私は私なりに頑張って彼に話しかけようとしていた。先生に言われたこともあり、そうしないといけないのかなと思ったからである。しかし、父親の仕事の関係で広島から東京へ越してきた彼は、どことなく特徴的なアクセントといがぐり頭で一躍クラスの人気者になっていった。くりくりする目はどことなく愛嬌があって、人好きのする軽い会話に長けていた彼は、一ヶ月ほどもしないうちにクラスメートから「たっちゃん」と呼ばれるようになっていた。彼に私の話しかけは必要なかった。むしろ、邪魔なのではないかと思って、ほかのあらゆるクラスメートと同様に極自然な感じで疎遠になった。

 それでも、同じように転校生としてクラスに加わった私は、あとから来て人気者になった彼と自分を見比べて暗澹たる気持ちになった。私が「嫉妬」という感情を初めて自覚したのはこのときだったかもしれない。それまで運動神経は別に良くなくてもほかの子と比較してどうかということについてはまったく気にならなかったし、勉強については自分なりによくできていたのでコンプレックスを感じることはそれほどなかったが、学校や塾で先生に褒められるのとは違った意味で自分を他人と比べる機会があって、ましてや友達ができないことを気にし始めていたころでもあったのでかなり心の平静がかき乱された。それでもたっちゃんを嫌うことは私にもできなかった。ああ、まあ仕方ないのかな、と思った。

 たっちゃんにはひとつ癖があった。授業中、凄い音を立てて屁をするのである。しかも匂いも強烈だ。あとから聞いた話では両親のどちらかがコメアレルギーか何かで米食をせず、もっぱら芋を喰っているので屁が止まらないのだと言ってたっちゃんは笑っていた。給食で米の飯やパンが出るのが嬉しいらしく、いつも美味そうに給食を喰っていたのが記憶に残っているが、とにかく一日三度か四度は平気で屁をひる。退屈な授業中に音を立てて屁をするたっちゃんは、クラスメートから「いつたっちゃんが屁をするのか」という期待を集めるのも無理はない。

 たっちゃんの隣に座っている女の子もまたたっちゃんが屁をこくといちいち「先生! たっちゃんがまた屁をしました!」と授業中休み時間の差なく申告するのがまたおかしいのである。本人からすると、もうそれが彼女の役割だと任じて疑わないようであった。たっちゃんはそんな風にクラス中に宣言されても、気恥ずかしそうにそのいがぐり頭を撫で回す仕草をするだけだ。まるでシンバルを持ったお猿さんのような笑みをもらすたび、クラスのなかで爆笑が広がる。

 いつしか、休み時間になると、たっちゃんのまわりにはクラスメートの人垣ができるようになっていた。私の机の近くだったこともあり、とにかく騒々しくて迷惑だったため休み時間は意識的に席を外すようにしていた。いじめられ始めだった私がランドセルや勉強道具を持って教室を出るようになったのは、ノートや教科書に落書きをされたり、ランドセルのなかに石を入れられたりするのを避けるためである。しかし、それが裏目に出て「あいつは休み時間も図書館で勉強している」という噂を立てられ、その後ずいぶん難儀した。もちろん別に勉強をしていたわけではなく、ランドセルを枕に屋上でゴロゴロしていただけなのだが。

 いつもと同じく孤独な夏休みが終わったあと、夏休みの宿題を提出する日に、ちょっとした事件が起きた。そのときちょうど私は夏風邪の治り加減で、少し赤い顔をして登校したのだが、ずっと腹の具合が悪かった。給食のあと薬を飲んで、しばらくすると腹のあたりがもぞもぞし始めた。授業中でトイレに立つとそれだけで目立ってしまう。だから私は私なりに我慢していたが、我慢しきれなくなって、自分でもびっくりするほど大きな音を立ててやってしまった。屁を。

 私のじゅくじゅくとした湿ったニュアンスを伴う屁は「ベフッ」という音を立ててクラス全体に響き渡った。しかも、あの何とも言えない、やばいぐらいの匂いが周辺に漂っている。こんなことになるとは、と思って私は真っ青になった。たっちゃんが屁をするのはいいとして、私が屁をしたのを知られたら、そのあとどんなことになるのか予測がつかなかったのである。またクラスメートから嫌なことを言われると思った。それも屁をした自分が嫌になるほどクサい屁である。ただでは済まなそうだと、血の気が引いた。すると。

「先生! たっちゃんがまた屁をしました!」

 女の子の声が、間髪を入れずにこだまする。教室では割れるような爆笑が広がると同時に、周辺の子どもたちが一斉に机をたっちゃんから逃れるようにずらす。

 思わず振り返ると、クラスメートの視線を一身に受けて、たっちゃんが気恥ずかしそうにいがぐり頭を撫で回している。あたかも人相の良い地蔵が照れているかのようであった。しかし、いまクラスで起きている騒動の原因は、間違いなく私の放屁である。私の屁なのに、どうしてたっちゃんがしたことになるのだろうという思いと、たっちゃんのいつもの仕草がおかしかったのと、何とも微妙な感情が私のなかで反響して、その後の授業はずっとぐるぐるとそのことばかりを考えて、たっちゃんに謝ったほうがいいのだろうかとか、たっちゃんだから屁は笑いにできるのであって私だったら単にみんなからあれこれ言われるだけに違いないとか、とにかくそういうことが頭のなかを巡ってしまって、どうにも居心地が悪かった。あれから二十年近く経ったいまも、そのときの二時間あまりは記憶に鮮明に残っている。

 授業が終わって、塾へ行こうとしていた帰り道、私はたっちゃんに呼び止められた。「おーい」

 何故だか心臓が止まるようなギュッとした締め付けられる感覚が襲った私の気持ちを知ってか知らずか、たっちゃんは笑いながら「われ、凄い屁じゃったな」とだけ言って、黒いランドセルを揺らして団地のほうへ走っていった。言葉を返す暇もなく、ただ走っていくたっちゃんのいがぐり頭とランドセルを見送りながら私はしばらく立ち止まって、ぼんやりしていた。謝るべきなのか、照れるべきなのか、笑うべきなのかさえはっきりしなかった。ただ、頭のなかが真っ白になった。

 クラスが運動会の種目分けに熱中するころ、たっちゃんはまた転校していった。何だか風のようだった。お別れ会に呼ばれなかったので、彼がどういう心境でクラスを去ったのかさえ私には定かではない。不思議と、寂しいとか、心配だとかそういう気持ちにはならなかった。たっちゃんならどこの学校に行っても大丈夫だろうという何だか突き放したような安心感と、もう屁はできなくなったなという思いが私のなかに去来していた。

 運動会は、かつて自分が経験したこともないぐらい大規模なものであった。私にとって、運動会とはほぼ全部の種目に出場するべきものだと思っていたが、種目分けのときに誰も私の名前を指名しなかったためか、棒倒しのところにだけ私の名前があった。両親も、ちょうど何かの都合で運動会には来なかった。学校で孤立していることを両親に隠していたこともあって、ちょっとだけ私は安心した。だが、リハーサルと称して入場行進だの開会式だのの予行演習で体育の時間が潰れてげんなりした。何事もなく運動会は過ぎ去り、ぽっかり空いていた私の後ろの席にはたっちゃんがロッカーに忘れていった運動会用のゼッケンだけが、セロテープで貼り付けられて風に揺れていた。
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