2002年8月26日に書いた日記をリライトしたものです。

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 私は投資家をしている。自分は自分で会社をやり、現場を観察する傍ら、投資を行っていく場合、どうしても避けて通れないのは投資先の失敗である。

 事業の失敗は、ありふれた、取るに足らない物語のひとつでしかないが、投資家は医者と同じくその人の人生そのものに向き合わないとならない場合がある。社長や経営者はただ単独で存在しているのではない、必ず彼らはそのバックグラウンドに経歴や人脈といった人生に彩られている。事業に失敗したからといって、その人生そのものを否定する気にはなかなかなれない。私の投資先であった会社の経営者だった彼もその一個の人生をまっとうした。

 彼には夢があった。事業家としての夢、それはいまにして思うと企業を作り運営していくにあたって必要な強くたくましい動機である。どんなに高性能な車でもエンジンにガソリンが入らなければ前に進まないように、どんなに優れた構想や高い能力を持っていても、是が非でもやり遂げるんだ、という衝動がない限り、そしてその衝動が続かない限り企業なんて経営できないし、人の上に立つこともできない。夢を持つことは、計画を立てることと同じくらい経営者にとって必要なものであると言える。

 それでも私は彼の夢を語る姿勢そのものが好きではなかった。できないことをできるという、不誠実なようで、また傲慢なあり方に、やり場のない不満を持っていたからである。

 出会いそのものはふとしたことだった。起業家たちが集まる表参道のパーティーで知り合った。知人のビルオーナーが資金を企業立ち上げの供出するにあたり、何とか補助してやってみてくれないか、というのが当初の話だった。彼は、知人から私の話を聞いていたらしく、非常に友好的に、かつ鷹揚に振る舞った。どこかで見たような光景だった。

 私自身は、自分でも嫌になるほど客観性に優れた、悪く言えばよそよそしい男ではあるが、人当たりが悪くないのと、人の話を聞くことは苦と思わないこともあり、彼は一方的に私に対して語りかけてきていた。

 当時26歳だった私にとって、大企業経験者がいかなるものかについてさしたる見識は持ち合わせていなかった。だが、彼にとって私と共同で事業をするにあたっていくつもの利点を当初から気づいていた雰囲気はあった。私は彼より随分年下だったということもあるかもしれないが、彼はこれから何かに挑戦しようとしていて、そしてそれに勝利することに何ら疑いを持っていなかった。

 彼は高らかに素晴らしい技術力とそれに基づいた驚くべき製品品質について説明した。パーティーの席上で、自分の事業について熱っぽく語るその姿を見て、私は何と空気の読めない男だろうと思ったが、かろうじて半笑いの状態を保ちながら話に聞き入っているフリをしていた。が、あまりにも自分のことばかり語るのでイライラし始めた。すべてのこと--パーティーに呼ばれたこと、彼を紹介されたこと、彼のためにどんどん時間が経過していくこと、テーブルにはもう料理がほとんど残っていないこと、手に持ったビールがもうぬるくなってしまっていることなどが、いちいち私を不快にさせた。

 間を取りたくなってトイレに向かうと言って中座しようとしたが、トイレにまでついてこられたので閉口した。明らかに、彼は私のポケットに入っているものに興味があるように思えた。

 初めての出会いは、決して私にとって望ましいものではなかったが、後日連絡が来て、会おうと言う。仕方なく秋葉原にあった彼のオフィスに行ったとき、多少印象が変わった。派手な言動で私を困らせた先日のパーティーとは打って変わって、落ち着いたオフィスで活気ある社員たちがひしめきあい、別のフロアでは技術者たちが五、六人打ち合わせしているのが見えた。

 そのころの半導体業界は、ファブレスとファウンドリに分かれていく流れのなかにあった。ファウンドリとは工場などでの製造に特化し開発を行わない会社であり、ファブレスはそうしたファウンドリメーカーに対して製造技術や設計をサービスとして提供し、工場を持たない経営を行うことで戦略的な強みに特化でき経営資源を集中できるという仕組みだ。彼の会社は、主に台湾やアメリカのファウンドリに対して主要なチップセットを設計し納品するというビジネスをやっていた。主要な顧客や、顧客に対して提供している技術についての説明を受けるにつれ、彼のやろうとしていることと、それに基づいた野望のようなものがうっすらと私の頭のなかで立体的に理解できるようになってきた。

 確かに、この会社は高い技術力を背景に受注を大幅に拡大しつつあった。俗に言う「ロックンロール」であり、提供される技術は主に携帯電話向けの省電力半導体と、それを組み込む際の周辺技術に集約された。アメリカに共同研究するためのオフィスを持ち、複数の大学に対する委託研究を行い、東北大学の有力な研究者と非常に近い距離にあることまでは分かった。

 不安だったのは、彼らはただの半導体設計屋にしか過ぎないのに、すべての携帯電話向けの技術を総取りするという野望を持っていた点にあった。もちろん、それが可能だと彼らが考えていたのには理由がある。当時は、デファクトスタンダードという言葉があり、シェアを獲得できる汎用的なプラットフォームを提供した場合、その昨日を必要とするすべてのプレイヤーは提供者からその技術を買わなければいけないという神話のようなものがあり、彼はどうやらそれを信じてやまないようであった。

 若干不審な思いにも駆られたが、二週間ほどあとで私は彼の要請より若干少ない金額の増資に応じた。残りは別の投資家がお金を投じた。企業が成長するときはこの手の俺様系の経営者のほうがうまくいくだろうということはほかの投資案件での経験則でないわけではなかったし、それより現状の受注状態が良好で、個人的な調査の結果受注は拡大傾向にあるということは見て取れたからである。

 ところが、ほどなくして事態は暗転した。資金を投じてから数ヵ月後、彼は断りなしにビーム通信なるIT大手の傘下に入るため増資を引き受けてもらったことが判明したのである。これにはさすがにほかの投資家は怒った。

 当時はITバブルの最終局面であり、市場から多くの資金を調達したIT系企業がさらなる上場企業候補を求めて投資できそうな会社を物色している時期であった。しかも、その投資は乱暴を極めた。まだ営業さえ開始していない企業や、アイデアだけあって実現が可能かどうかも分からない企業にさえ法外な金額で投資をしていた。突然お金が降って湧いた感じの経営者たちは、大盤振る舞いで事業を拡大し、人を増やし、不正に個人的な蓄財を行った。

 いつの間にかビーム通信系となっていた投資先に訪れた株主たちはいきり立った。当たり前だ、既存株主の承認もなしに第三者割り当てをビーム通信に対して行うというのは非合法だったし、何より企業の成長性を見込んでいるのに資本金が増えてしまっては株式公開をしたときの儲けが減ってしまう。

 しかし、彼はいつものように熱っぽく株主の前で演説した。情報革命はスピードとの勝負であり、増資を引き受けるための株主に対する周知で資金導入が数ヶ月先になってしまっては必要な事業展開や開発の着手に遅れが生じてしまう。企業成長は私が保証するところであるから、株主にはご容赦願いたい、と。

 そんな話は通るわけがないが、ビーム通信は投資界隈では名うての問題企業だったので、問題を大きくしても得るところがないということでは株主の間で一致していた。ただビーム通信の話に乗せられた彼の先見の明のなさには失望していた。株主はビーム通信と協議し、既存株式を望むだけビーム通信に転売することができるという条件を勝ち取って、多くの株主がその段階で勝負を降りた。もちろん、私もそこで勝負を降りることにした。

 ところが、彼は私が投資金を引き上げたことについて怒っていた。怒るのは自由だが、私からすれば合法でさえない第三者割り当てを強行する経営者を信じてお金を託し続けることは合理的でないと考えた。ビーム通信は投資方法に問題があることはほかの事例でも知っていたし、これ以上揉め事に巻き込まれるのは望ましいことではなかった。

 二度目の臨時株主会議は当然のことながら紛糾した。株主の多くが勝負を降りる判断を下したことについて、彼は猛然と株主たちを詰った。だが、私は彼が怒鳴りたてる内容については大人しく聞いていた。当時、私は別のことに関心を持ち始めていたので、特に言い返すことなくやり過ごそうとした。同時に、彼は怒っていたが、その後ろ側にある漠然とした不安に囚われていることは見て取れた。ビーム通信が株主になったところで、彼らが新しい顧客を紹介してくれるわけではなく、企業成長そのものにプラスに働くことはあまりない。しかし、向こう何年間かは安泰のキャッシュを抱えて技術投資を行っていくにあたって、指針となるべき情報を提供する株主を失ったことのリスクは大きかった。

 一回り近く年上の彼にとっては、恐らく最後のビジネスだという覚悟であったのかもしれない。その心情は分からなくはない。その押しの強さ、物事を進めるパワーは誰もが認めるところであったが、状況の変化にあわせるという柔軟さについては持ち合わせていないようだった。もし、彼がビーム通信からの投資を受け入れるかどうか悩んでいるということであれば、彼よりもむしろ投資家サイドのほうがビーム通信の現状についてはよく知っている。相応しいアドバイスを企業に利する形でできた可能性が高い。会社そのものに投資をさせるのではなく、営業会社を子会社で作ってそれに共同出資するであるとか、方法はいくらでもあったが、彼はとにかく出資を集めて上場に漕ぎ付け創業者利益を得て、半導体業界のスターダムに上がっていきたいということぐらいしか考えていないようだった。

 彼の会社への投資を切り離したあと、私はにわかに体調を崩してしばらく静養していた。私も狂っていたので、そのとき2000年問題が起きるのではないかと無駄な心配をして投資の一切を引き上げようとしたり、まあいまから思えば恥ずかしいことをいくつもやっていた。

 しばらくして、ビーム通信の突然の没落が話題になった。幸か不幸か投資を引き上げていた私にとっては、ITバブルの崩壊そのものには何ら損害を蒙らなかったが、彼の会社はとんでもない事態が起きていたことをあとになって知った。上場目前になって、上場申請をする前後にビーム通信のキャッシュが枯渇しそうになったため、役員を送り込まれ、別の子会社との合併を強行されて彼の会社はその野望と一緒に消えた。

 彼が、半導体関連の商社に転勤したことを知ったのは、随分してからである。たまたま私の投資している会社と彼が再就職した会社に取引があって、それの年始の挨拶をしたときに彼の話題を聞いたからだった。教えてくれたのは、彼の会社にいた、いまだ私と付き合いのある元技術者だった。家に帰ってから、何だか懐かしくなって彼の会社の残骸を調べてみたら、合併させられた会社ともども任意整理され、そこで働いていた素晴らしい技術者たちは四散していた。それを知ったとき、何の感慨も持たなかったが、あとになって赤坂へ引越しする際、書類棚からかつて彼が目標としていた2001年上場までの事業計画書が、彼の熱っぽい手書きメモつきで出てきた。もう必要のないものだ。ゴミ箱へ放り込もうとして、自分でも分かるぐらいの悲しい目つきで引越し用のダンボールにしまった。

 三度目の夏が来て、また例によって表参道のパーティーに呼ばれていったとき、ビルオーナーから彼が春ごろ死んだことを教えてくれた。不慮の死だった。別に親しくも利害もなかったが、自分の会社が消滅し、ローン途中だった家を売り払って賃貸マンションに移って勤め人をやり、まだ中学生の子どもを連れて奥さんは出て行ったそうだ。それが人生と割り切ることもできるが、何か置き忘れたものがあるような気がして葬式に参列したビルオーナーに斎場を聞き、そこに問い合わせて彼の眠る墓地へ向かった。

 彼の墓前で、何日も経ってない新しい、見事な花が添えられているのに気づいた。そこに貼り付けられている写真では、かつて彼が経営していた会社のオフィスで二十人ほどの社員に囲まれ、子どもを抱いて磊落に笑っていた。彼がやろうとしていた事業計画書を燃して、線香をあげ手を合わせた。午後の墓地は蝉がうるさかった。ゆっくり一本たばこを吸い終わってから、事業計画書の灰を片付けようとして、やめた。なぜだか、それが彼の生きた証のように思えて仕方がなかったからである。

 少し佇んでいたら、風が舞ってしまって私は灰だらけになった。頭にきた。これで、おあいこだ。