筑紫の宮は、長津京だった(福岡市南区三宅探訪) | 一石、月夜に(無駄)吠える。

筑紫の宮は、長津京だった(福岡市南区三宅探訪)

梅雨の晴れ間にムズムズして愛車のスクーターで出かけます。
以前から気になっていたのですけど、福岡市の南区に三宅という地名があります。
最近、古代の歴史に興味が湧いて、歴史の本に載っていないことばっかりを追いかけています。
自分が生まれた国の歴史は、偉い歴史家たちによってほとんどが調べつくされているのだと思っていたのですが、それは大間違いだということに気づきました。
そういえば、日本最古の本は、古事記と日本書紀。
つまり、それ以前の時代については、文字で残されてないのです。
偉い歴史家の方々は、きちんとした証拠がないと、学問として認められず、想像でものを言うことは、物語の範囲から出ないのですね。
わが国には、日本神話というものが伝わっています。
神様が国を作り、人間を作って、国を作ったという、それは神話という御伽噺で伝わっています。
私は学者ではないゆえに、そういう何の証拠も無くて歴史の教科書に書いていないことに、興味を覚えます。

話は戻り、三宅という地名のところに行って見ましょう。
ミヤケ・・・、つまり、天皇がいた所です。
いつものように、その場所にたたずみ、そっと気配を殺します。
古代の人は、川に沿ったアップダウンの無いところを歩きました。
そして、ところどころに休憩場所、そう2キロか4キロごとに道しるべを置きます。
数千年経った今も、そういうところは、小さな森として、時には神社、時には学校に隣接した森、時には公園です。
ユックリと導かれるままにスクーターを走らせます。
小さなクリークに沿って進むと、ハイ、ありましたよ。
小学校横の神社です。



昼なお暗き鎮守の森です。
社殿はありますが、森の中央にあって、後から神社として祭ったのでしょう。
隣接する小学校も含めると、かなり広大な土地です。



親切にも説明版があります。
内容は、筑紫の宮跡と書いてあり、「定かではないが~」と遠慮がちな解説。
そう、それでいいのです。
真実は、いつか後人が見つけてくれる。
いまは、こういう伝説を記しておくことが大事なのです。

学校で習った645年大化の改新。
中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏を滅ぼした事件。
そのときの天皇は、中大兄皇子の母、斎明天皇。
彼らがいた場所、長津京。
ここがその場所です。
蛇足ですが、その後、ここから筑紫京へと遷都していますが、それも原鶴温泉の近くなのです。
つまり日本の首都がここにあった。

どうしてここに首都があったのか。
もちろん大和朝廷は京都付近にありました。
しかし、わが国はいつの時代にも、大陸への玄関口は、ここ九州北部なのです。
つまり、百済という隣国を救済するために、ここに遷都したのです。
結果は、663年の白村江の戦いで新羅軍にボロ負けし、百済は滅び、日本軍は退却を強いられます。
当然、天皇を含めた日本軍は、逃げまくって、大津京まで逃げ帰ります。

日本史では、その後の大陸との歴史は、蒙古襲来まで空白ですが、新羅・唐連合軍に大負けしたあと、再び勢力を盛り返したり、彼らが撤退したという記述はありません。
もちろん、日本という国という概念も無く、倭という集団単位であった時代です。
戦いの動機も、蒙古のように勢力拡大ではなく、百済救済の名目で当方から仕掛けた戦いです。
占領はしたものの、恨みつらみはほとんど無く、そのまま地の民と融合したものと考えられます。
その証に、その後に構築された砦は、朝鮮式山城が主流であり、彼らのノウハウで築かれています。

まあ、歴史の本には書かれていない、私の興味の範囲での推測ですが、そういう歴史がチョット足を伸ばしたところに残っていて、そして、誰もそれに気づいていないということが、とても面白いということですね。