2022年もすでに1か月が過ぎようとしています。
たまにしかアップしないブログを読みにきてくださって、ありがとうございます。
大変に遅くなりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、今年はどのような年になるのでしょう?
変革の時代と言われ、振り返ってみると、この2年はコロナによって私たちの生活ば大きく変化しましたよね。
リモートワークが取り入れられ、イベントや旅行、パーティー、セミナーといったものが制限されたことで、家にいる時間が増え、生活の楽しみ方が変わりました。
でも、私が強く感じるのは、こういった社会生活の変化よりも、私たちの内側の変化です。
私たちの価値観が変わったように思います。
今まで私たちは外側に目が向いていました。
収入がいくらか、どんなものを持っているかといった物質的なことや、学歴や社会的な地位などに価値を感じてきました。
でも、最近になって 『これって本当に私にとって大切だろうか?』 と自分自身に問いかけた人も多かったのではないでしょうか?
本当は安心して暮らしたいだけなのに、そのためには高学歴、高収入を目指さなくてはいけなくて、いつの間にか、価値が高学歴、高収入に置かれるようになったのかもしれません。
知らず知らずのうちに私たちは学校教育で人生の方向性を決められたり、企業が創り上げる流行を追いかけたり、何から何までみんなが同じものを求めていくようなシステムの中に置かれていたように思います。
常に何かを追いかけて、切磋琢磨して頑張ってきたのに、それなのに決して幸せにならないという現実。
そこにコロナです。
ワクチンパスポート導入によるワクチンの強制接種に抵抗して、世界各国で大規模なデモが発生しています。
私たちに与えられたわずかばかりの自由の権利が侵されることに対する抵抗です。
デモはその権利を勝ち取るための闘いと見る向きもありますが、私には何か本来の自分自身を取り戻そうとする人々の力強い息吹のようなものに感じれます。
今、私たちの内側では大きな意識改革が行われているのではないでしょうか?
多くの人が人間は本来もっと 『自由』 なものであると気付き始めたように見えます。
世界同時多発的なデモは、まるでドミノ倒しのように私たちの集合意識が変化していく様子なのかもしれません。
例え、無意識レベルであったとしても、私たちの内側で変化が起きていると実感します。
押し付けられるのではなく、自由意志で人生の選択をしていこうという変化です。
それに呼応するように、私たちはディープステイトなどと呼ばれる一部の支配者層に長い間、管理されてきたことを知りました。
そこで、彼らを排除して、自由を勝ち取らなければならないと考えるのは当然ですが、
でも、外側に見えていることは、私たちの内側の投影に過ぎません。
私たちを長い間、コントロールしてきたものが私たちの内側にはあるのです。
そこを探り、突き止めることが、根本的な問題解決になるはずです。
では、私たちの内側にあって、私たちを支配し続けてきたものは何か?ということになるのですが、
それは、私たちの自我、つまりエゴだと私は考えています。
私たちは 『エゴ』 の存在に気づき始めたのだと思います。
あるいは、『本当の自分』 と 『エゴの自分』 を少しずつ切り離して見られるようになってきた、と言い換えることができます。
エゴの支配とは何を言っているのか、今日はその説明をしたいと思います。
上手く説明できるかわかりませんが、エゴというのが分かりにくいので、まずその特徴をあげてみます。
① エゴは損得勘定で動く性質があります。
何が得かを計算し、何を選ぶと有利かを確認して、少しでも多く得ることを信条としています。
私たちはさまざまな場面で無意識に計算が働きますよね。 どこのお店が安いとか(笑)
② エゴは勝ち負けを気にします。
常に自分と他人と比較しながらどちらが優位か、どちらが正しいかにこだわります。
他人と比較しながら自分自身を評価して安心したり、落ち込んだり、あの人は間違っていると批判してみたり・・・思い当たりませんか?
③ エゴは臆病です。
病気や事故、災難に合うのではないかとびくびくし、細心の注意を払っています。
転ばぬ先の杖とは言いますが、恐怖は正常な判断力を鈍らせるし、生活を窮屈にするし、あまりいいことがありません。
④ エゴは自分を被害者だと感じています。
誰かや何かに自分の存在が脅かされるような気がして、敏感に反応します。
見下されたように感じてイラっとすることありますよね?
⑤ エゴは自分自身が人生の主権者だと考えています。
何事も自分自身の判断、選択、努力などによって結果は決まるのだから、気を抜いてはいけないと、いつも緊張しています。
自分の人生なんだから主導権は自分にあると思っていますが、自分ってエゴのことですか?
⑥ エゴは寂しがり屋です。
愛の中にいることに気付いていないので、条件付きの愛を愛だと勘違いしたり、そのような愛を求め、安らぐことができません。
愛したり、愛されたりが愛だと思っていますが、愛は行為ではありません。
ざっくりと思いつくままに書いてみましたが、これを読むと反論したくなる部分もあるかと思います。
ですが、ここは細かい部分の議論はさておき、深く自分自身の内側に探りを入れてみてください。
私たちがごく当たり前に考えたり、行動したりしているとき、必ずベースにエゴが働いていることがわかります。
私たちはエゴと一体化しているので、気付きにくいのです。
本当の自分がエゴによって見えなくされていたのです。
そして、すっかりエゴが自分だと思って生きてきました。
エゴは巧妙に私たちを操って、エゴこそが自分だと思わせてきたのです。
エゴは主権を握りたいのです。
ここで 「あれ?」 って気づきませんか?
このエゴのコントロール、まさに今の社会構造そのものだと思いませんか?
外側のディープステイトと内側のエゴが相似形になっています。
現実の中に私たちは必ず自分自身を投影して見ています。
投影は人それぞれですから、これはあくまでも私のケースということになりますが、現実を素直に見つめることは自分自身を深く知る手掛かりになります。
外側は自分の内側を知るためにあると私は思うのです。
話が逸れてしまいましたので、戻しますね。
私たちは自分のエゴに気づき始め、それによって少しずつ私たちの社会の実態に気づき始めたのです。
ディープステイトに支配されてきたという現実を見るに至ったのです。
つまり、私たちはディープステイトにコントロールされてきたのではなく、自分自身のエゴにコントロールされてきたのです。
ディープステイトは投影として見ているのです。
ここで、もう一つ、気付くことがあります。
このエゴにコントロールされてきたということに気づいたのは誰か? ということです。
この 『エゴを自分だと勘違いしている私』 を見ている人がいるのに気づきませんか?
本当の私です。
エゴと一体化して見えなくなっていたけれど、とうとう 『本当の私』 という存在が現れてきたのです。
エゴは私たちが 『本当の私』 に気づき、エゴのコントロールを離れて、自由に羽ばたくのをとても恐れています。
私たちの本質はこの物質次元だけを生きているわけではなく、神あるいは愛という全体です。
それに気づいたとき、私たちはエゴを凌駕します。
本当の私は肉体にとどまらない大きな存在です。
肉体を持って生きる以上、私たちはエゴを排除することはできないと思います。
だからディープステイトと呼ばれる人たちを無くすこともできないでしょう。
でも、一旦、気付いてしまったら、もうコントロールされることはありません。
気付きによって私たちの意識は変わり、それが現実に投影されるので、現実も自ずと変化します。
本当の私は神と一体化した愛です。
これからはこちらが現実に投影されていくのです。
これから私たちはエゴを優しく導きながら、肉体を通して神の愛を表現していくことになるのだろうと思います。
どんな世界が現れてくるのか、楽しみですね。
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お友達がランチ会に招待してくれました。
心づくしの美味しいお料理の数々を味わいながら楽しい時間を過ごしました。
写真はお料理の一部です。