「カレーが心から美味しい!」と思える日々を送っているだろうか?
カレーは「例え」話だが。
メルティチョコフラペチーノの最初の一口のメルティな味わいを「うっわ^おいしい~~」と感じたとしても、
2口目3口目と飲むうちに飽きる・・・
そして、次に同じフラペチーノを注文しても 初回の感動は湧かない・・・
このなんという「不幸」!!
「無い事」「足りない事」に焦点を当ててしまうことを=「不幸」という気がする。
一方、「足りている事」を知る(=足るを知る)。
これは老子の中に出てくる言葉。
(ちなみに私の亡祖父の名前は知足といい、これが由来だそうだ)
足りている事を自覚して毎日を過ごせたら、なんという幸福だろうか。
1口目も2口目もずっと美味しいメルティチョコが続くことだ(例えが非常に低レベル)
・・・・・・・・・・あれ、前置きが長くなったが・・・・・・・・・
「今」のコロナ禍だから、考えるようになったのは「毎日の過ごし方」だ。
なぜか前より、時間ができた。
物理的な意味じゃなくって・・・・なんちゅうか・・・・時間ってあくまでも自分の中にあるもので、他人と同一じゃないよね。
20~5年前の私は「時間大貧民」であった。とにかく時間欠乏が激しくて、その負債をどうやって減らそうか、どうやって時間貯蓄をしようか、
「子育て中」「会社経営」「現場もこなし」「家事100%ワンオペ」あらゆる時間貧民要素をかかえる 身で
考えて考えて
時間富豪への道をひたすら走って求めた。
何をしたかというと➡
「徹底的な仕事の効率化行動」
「早めの計画・行動」
「家事の上達と徹底的な効率化」
「キープキレイ」である。
全部抽象的だけど、それらの中に詳細かつ具体的な事が100も200もあるので、書くのは省く。
具体的な事例の一つとしては「早寝早起き」みたいなこともあるし。
あと、「通勤時間をゼロに近づける」っていうチカラワザもあった。
生活には無駄が多いのだよ。貯蓄できる時間はあるのだよ。
あ、因みに子育て中の15年間なんて、「自分の趣味や楽しみ」の時間なんてゼロだったよ~~。いま「多趣味ですね」とか勘違いされるけど、趣味なんて1分もできなかった。そんな時間貧民であった。
で、今は確実に「富豪」になった・・・
時間富豪(=わたし)は、相変わらず会社を経営し、奮闘しなきゃいけないし、子供の仕送りも変わらないし、母であることは死ぬまで変わらないどころか「祖母」という約も増えるし、家事量も同じはず。
しかし、あきらかに物理的にも「時間富豪」である。
そして、家事の効率化は相変わらずなので、ますます余裕がある。
そして、時間の運行も変わってもっと時間ができた。
と、ここまで書いて長くなったので、「もっと時間ができている現状」について次のブログに分けます!