「良い人」でいたいという気持ちは、日本人なら特に強いはず。
それが、今の日本の同調圧力の強さに表れている。
周りの言うこと、目上の人の言うこと、自分より偉い人の言うこと、テレビ、新聞の言うこと、政府の言うこと、国の言うこと、それらを素直に従順に聞ける人たちは皆「良い人」だ。
偉ぶらない、謙虚である、自分の考えを持たない、賢くない、自己主張しない、和を乱さない、自分よりも周りに合わせられる優しい人。
それらも皆「良い人」だ。
けれども、その良い人である人たちのその本音と言えば、良い人であることで自分の得になるからだ。
そこに何の得も無いならば、良い人は良い人であらない。
人というのは、自分の得になる(と思っている)ことしかしないものだ。
“人から惜しまるような死に方をしたい”というのも、私たちの美徳とするところだ。
今のワクチン騒動にしても、深く考えずにあっさり打ってしまう人の多いこと。
特にお年寄りの年配者。
それらの人たちは多分に漏れず皆、疑うことを知らない良い人たちだ。
(良い人=馬鹿とも取れるね…)
けれども、不思議だったのだ。
ワクチンを打つ人というのは、基本的には感染するのが恐い人のはず。
けれども、感染しても、それが風邪程度の認識のものならば、わざわざ副反応が強いと言われるワクチンを好き好んで打つこともしないはず。
(流行りものが好きな人は打ちそうだけどね)
つまりは、感染“死”が恐いということ。
けれども、盛んに言われている?強い副反応についてや、ワクチン接種後の死亡者についてはなぜか反応が薄い。
おいおい、君たちは死ぬのが恐いんじゃなかったのかい?
と、つまり、そこには名誉欲があることに気付いた。
コロナに感染して死ぬことは大変不名誉なことだけれども、もしワクチン接種が原因で死んだとしても、それは名誉なことなのだ。
だって、政府の言うこと、周りの皆んなの言うことを聞いて死んだのだから。
例え死んでも、誰も自分のことを悪く言う人はいないし、寧ろ、運が悪かったとか、気の毒だとか言って同情してくれる。
そういう時代なんだから仕方ないよねと言ってくれる。
それはまるで、特攻という自己犠牲による死を称えるように。
こうやって、本来コントロールできないはずの他人の心を、自分の都合の良いように心象良くしようと企むのは、そこに“名誉欲”があるから。
つまりは、私たちは単なる“死”が怖いんじゃなくて、“不名誉な死”というのが怖いんじゃないのかと。
誰かに悪く言われること。
「ほら、自分勝手をするからバチが当たった」などと言われない。
そして、処世術として「良い人」でいることは、とても便利で得で生きやすいことなのだ。
特にこの日本においては。
誰も自分を悪くいう人がいない。
それは、何があっても自分は責任を被らない、負わないという「ズルい」生き方だ。