世話をする | ゆるりのブログ

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私個人の思うこと、感じることなどを徒然に綴っています。

私の言葉がキツく当たる方はご遠慮下さい。

自分が生まれてきた意味は?

自分が存在している意味は?

この世での自分の使命は何?

なーんて、自分の存在に大層立派な意味付けを私たちはしたがるけれど。

ブループリントだの、カルマだの、ライトワーカーだの。

そんなのが本当にあるのかは知らない。

けれど、私が今感じているのは、究極のところは、自分の世話をしたいから。

何かの世話をするには愛がないと出来ない。

例えば、植物を育てること、ペットの世話をすること。

植物なんかは一番分かりやすくて、私たちが愛情を持って育てたら育てただけ、美しい花を咲かせてくれる。

世話をするとは愛すること。

母親がわが子を育てるように。

今の親たちは、いろんな義務や責任、生活への閉塞感から、子供を産み育てるということの意味をはき違えてしまっているけれど、もともと子供を育てるということに意味はない。

母親という存在が子供を育てるのは、そこに命があるから。

ただそれだけだ。

命があるから育てる。世話をする。ただ無条件に。

これはもう本能的なもの。

だから、私たちにはもともと何かの世話をするという本能が備わっている。

それが生きる目的と言っていい。

その何かとは、究極的には、自分の世話をすること。

それが分かっていないから、私たちは他人というものに自分を投影して世話を焼きたがる。

誰かの、何かの役に立ちたがる。

必要とされたがる。

他人というもので、自分の存在に意味を見つけようとする。

他人から愛されようとするのは、自分を愛したいから。


毎日を、栄養のある美味しいものを食べさせ、お風呂に入って、洗濯された衣服を身に付け、身綺麗にし、家の掃除をして、身の回りの環境を整え気持ちよく過ごす。

楽しいことをして自分を悦ばせ、毎日を気分良く過ごす。

これが自分の世話をするということ。

これが自分を愛するということ。

けれども、私たちは自分というものに我慢をさせることが常で、体調が悪くなっても休めないと無理をさせ、病気になれば自分の身体を恨み、ひたすらぞんざいに扱っている。

本来の、生きている自分がやりたいこととは真逆のことをして、長い時を過ごしている。