すADHDの人は
色んな「出来ない」があって
私は50代だったかな?
「何故私はこんなに片づけができないんだろう」とゆう本を読んで初めて知りました
特に数字と時間の概念がありません。
それから中部地区で1番有名な大きい病院へ行き
精神科にかかりました
先生は
「限りなく黒でしょう、
でも今のあなたにそうだ、と診断してしまうと
とても生きにくくなると思います
今日はグレーとしておきます、
メモとアラーム、スマホなどを上手に使って上手く生きて下さい。」
とおっしゃいました
、
でも私は嬉しかった
今までの失敗やドジ話、
山ほどあるやっちまった話の
つじつまがあったようで
そうだったのかー、
と。
でも
最近特に感じてしまうようになった
誰も認めてくれてないからだ
娘達ですら
攻撃してくる。
ますます生きにくくなり
次は絶対人間になどうまれたくない!と
強くねがっている
長女は反面教師で
潔癖症になった
彼女の家には無駄なものが何一つない
子供が小学生の頃
工作でいるから箱適当に取っといて
と言い
自分は全て捨てていた
本当に生活感のない
まるでショールームのような家である
彼女は何かにつけて私を攻撃してくる
体調が悪くなり会社を辞めた長女に
旦那さんがいい仕事だから
(誰でも知ってる超一流企業)
お金の心配せずにゆっくりできるね、と
ねぎらいのつもりで言うと
自分の貧乏自慢するな!
私達はそれなりに勉強して今がある!
旦那も首席で学校を入学卒業してこその今の地位だ!遊んでて出来るわけではない!と
私は長女を産む時喘息になり
産むまで入院して
毎晩気管拡張剤の注射して
産まれてもだれも見舞いにもきてもらえず
知らない遠縁の伯母さんのタクシーで退院して
年に何度も入院して
嫁が入院してたんじゃ
誰が家事やるんだい!
って姑、舅姑にいじめられ、
6ねんでやっと逃げ出して
一人で育てて、
それでも文句あるんか!
それからだって喘息がひどくて
年に何度も入院しながら
お前を育てて来たのに
勉強しなかったから
今の貧乏がある!と言えるのか
私は母にも怒られ続けて育った
計算できなかったから
お使いにいってもお釣り間違うから
(それはお店の人のせいだよね)
それとも計算出来ない子だからごまかされたのか
母は方言で
とろくさい!とろくさい!(なんてマヌケ、とろい、出来ないやつ)
を毎日何回も何回も言いました。
私は物心ついたときから
ずーっと言われて育ちました
算数もできない
時計も読めない
九九も地獄
買ってもらったばかりの上靴を川に流した
お遊戯もしなかった、
4歳下の弟は今も先生だけど
当時から賢くてずーっと比べられて来た
私と一緒に塾に行ってとなりでお絵描き帳もらっただけですらすら覚えた
私が小学生、中学生のころなんて塾なんてなくて
引退した先生や
いいとこの大学出たのに遊んでる人の所へ習いに行く
「門前の小僧習わぬ経を読む」
弟はそのタイプ
まあ学校で習えば復習すれば完璧タイプ
母には夢があったのだろう
教員住宅制度がなくなって
田舎の伯母の家に同居になって
(母の実家)築300年の城下町の大きな家
そこの土間に洋間を作った
(中に置いた感じの作り)
絨毯、ピアノ、ステレオ、応接セット、大きなひだのフロアーライト、
まだ町内に三台しかピアノがない時代
音大目指してたお姉さんが借りにきてた
だから私もピアノ教室に行かされる
オルガン教室からするのが普通の時代に
母はピアノ教室へ入れた
苦痛だった
書道教室はそこそここなした
賞も時々もらった
でもどこへでも弟とセットで入る
弟はあっとゆうまに賞も取るし
さっさと卒業した
何も出来ない私の為に
いくらお金をドブに捨てかわからないけど
何もできない私に
とろくさい!とろくさい!
と怒る母
やらせといて怒る
毎日怒る
とある夏休み
見かねた父が工作を手伝ってくれた
立派な回り行燈ができた。
よく思い出が走馬灯の用に、の走馬灯
中にろうそくを立てると風車が受け止めて
真ん中のセロハンの水族館が回るのだ
でも私は学校へ提出しなかった
だって私がそんなんつくれるわけないもん
父が作ったってまるわかりの
職人技だったから
それを母は毎年言った
あの時の夏休み
お父さんにあれだけやってもらって
持っていかないなんてとろくさい奴め!!
何年も言われた
ずーっとずーっと私は母に怒られ続けた
高校卒業して 父のこねで就職しても
ちょうど通勤の途中の方に送り迎えして貰いなさい、
と母が頼んだ中年親父に
暗闇で椅子を倒されても
せっかくの親切を何故断ると
私は真実を言わなかったけど
父はすぐ中古車を買ってくれた
そして
なにより結婚相手が悪かった
そう、本当に悪い奴だった
街の不良で知らない奴がいない
仕事?気が向けばいくさ、
いつも家が溜まり場になってて
好き勝手知らない後輩がタムロしてて
よりによってそんなやつに近づいて
目をつけられてしまう
当時付き合ってた女の子が
朝○人だから親が反対してると
私なら親も確かだし
と言ったと後で聞く
とろくさい!帰ってこい!
とろくさい!なにやってる!帰って来い!
帰って来い!
そう言われ続けて
新しい居場所を見つけた気になってしまう
ここならいてもいいんだよ、
と。
そしてとうとう結婚してみると
生活費をよこさない姑に
お前が全部やれ!と言われ
あっとゆうまに借金生活になる
当時からお天気痛、気圧病だった
朝起きれない
情け容赦ない言葉でなじられる
嫁が来てますます自分の娘が可愛くなった
ジジイは(娘も親がやく○の家に嫁がせて大変らしかった)
あることないこと娘に電話したさに
嘘の電話をかけまくる
おじいさん、ご飯ですよ、
と、部屋に呼びに行って
初めて気づく
そこには真新しいポットとどん兵衛
それは「嫁がご飯を作ってくれないから」
と皆に言って回る為の細工
5年目に旦那の仕事で愛知へでた。
用意されてたのは
とてもボロボロの団地だった
でも水洗トイレだった!
(ここではかけませんが前のいえは違った)
夢の様だった
なぜかお向かいの老夫婦がお金持ちで
良くしてくださって
ベッドを新しくしたいから古いのもらってー
とかなにかと優しくしてくれてた。
おばあさんはパースメーカー入れてたので
同じ病院まで紹介してくれて
年に何度も入院するのも手配してくれた。
突然天国に来た!
だれも何も言わない
昼間娘(前出の長女)とふたり
大きい市の幼稚園にも入れた
なんとなくやっと幸せだと思えた
そして一年で仕事はおわり
帰るぞと。
断りました。
こんな幸せな所から
地獄になんか戻るわけない!
なんなら
とろくさい!と言われ続けた母もいない
父と弟が婚礼家具を引き取りに行ってくれた
終わった。
地獄とはさよならだ
(前回の結婚した家には猫が居て、と同じ家の話です)
私、もう少しまともに産まれたかった
昔多動症なんて知られてなかったし
発達障害とかも詳しく言われてなかったし
ADHD知られてもなかった
もう30年後に産まれたかったな、
同じADHDでも
知らされてそれなりにヘルプがあって
地獄見なくて済んだかなー、
計算機も母はその時最高水準のやつを買ってくれてわたしには必要なくて
借りたい人で行列できました。
(高校当時)
だから数学、科学、物理オール赤点
それで全く同じ問題を出す、回答も付けておく、暗記して来い、
と言われてもできませんでした。
だって数字の時間の概念がないんです
無いんだもん
51から36は引けません
時間は今となってはスマホのタイマーを
支度始める時間と出かける時間の
ダブルがけ、
スケジュールは洗面所の横に全て書く
カレンダーは必ず日曜始まり
手帳はあるけど使わない
そして、忘れ物もしない日がないので
カバンに
通帳も印鑑、診察券、くすり、ハンカチは三枚、日焼け止め、アルコール、絆創膏、鼻スプレー、点眼薬、ハサミ、テーピング、
診断書、コロナの紙、予約表、領収書、
パンは2本、シャチハタ付きの、
生きにくい
まだあの母は生きてる
帰れば服がとろくさい
サンダルがとろくさい
帰った時間がとろくさい
母の葬儀は家族葬にきめてある
今90歳 たぶん
もう、これでほんとにさようなら
さようならー、
もう、だれもわたしにとろくさい、って言わない
いうならADHDに言って
私自身に言わないで
出来ないのに
やってもわからないんだもん
もう生き辛くて
生き辛くて嫌だ
てゆうてもわたしの人生もそんな残り長く無い
絶対人間には生まれ変わらない
私が産まれた時、
喜んでくれてお父さんお母さんありがとう
でももう二人のところへはもどりません。
さようなら