今、がんばっていること | 4人の子どもと鬱夫とくらすアーティストともみん。ARTをつかって自己肯定感マイナスからの自分救済計画実行中!

4人の子どもと鬱夫とくらすアーティストともみん。ARTをつかって自己肯定感マイナスからの自分救済計画実行中!

暮らしをアートにしていく暮らしのアーティスト。夫とともに築いてきた我が家という居場所で4人の子供と1人の天使とともに送る日常を徒然なるままに。

こんにちは

ともみんです。




親子の関係って、

外から見ているだけじゃ、

わからないものがある。




わたしは自分の親子関係が

よかったとは思わない。

親が苦手だった。

今も苦手感は残っている。




それは親が悪いということでもないし、

毒親ではないどころか



周りから見たら

“できすぎるほどの素敵なお母さん”で



“あなたのお母さんは本当にいいお母さんやなぁ”と言われるくらい。






だけど、

わたしにとっての母は


『近くにいるのに、近寄れない人。

遠くを見ていている人』だった。

近づきたいのに、近寄れない存在。

どうしたら、近づけるのか、わからないまま

成人し、家を出た。





衣食住はちゃんと整えられていたし、

弁当は10年間欠かさず作ってもらっていた。




だけど、

愛情を感じるというより、


やっつけ仕事感や

義務感として作っている感じの方が強くて、




食べる時、“無”の感覚だった





感覚の記憶。





※この記憶はあくまでも“わたしにとって”の話で

同じご飯を食べていた兄弟は違う印象だと思う。



母が悪いわけではない。


毎日毎日の食事、お弁当作りは

本当にすごいなと思う。

真似しようにも、できない。

出てくると嬉しいメニューもあったし、

楽しみにしていた食事もある。


だけど、

わたしの中にある“感覚の記憶”は


母の義務感とやっつけ仕事感の方が

愛情より遥かに強く感じられていた。




わたしの感性が

そういうネガティブな感情を

キャッチするのに

あまりにも繊細で

見逃さないから



そういう事態になったのだと思う。






そのほかの色々からも

母からの愛情を

感じなかったわけでもないけれど、


それ以上に

“ほんの少しの、面倒くさい”を

敏感に感じてしまっていたために





よく言う

『母=安らぎ、安心』という感覚とは

程遠かった。





母が嫌いとか

愛情を感じないとか

母を信じていない…ということでもなく、


今も母は頼れる存在。




だけど、

“お母さんの温もり”を

感じた感覚の記憶がない。




つながりあえない感覚が強かった。




そう言えるのは、

今だからで


“温もり”をしらないわたしは

“温もりを感じていないこと”さえ

気づいていかなかったし、


母からは人並み以上に

与えてもらっていたからこそ、

“わたしは愛情を受けている”と

言い聞かせ、

「不足感」を感じている自分の気持ちを

見ないようにしてきた。






しかし、わたしの中にどうしても埋まることのない

「空虚感」と「孤独感」があり、

なぜ、そうなのか?

自分でもわからないつらさがあった。





それだけでなく、

何不自由なく与えられ、

周りからは“いいお母さんやなぁ”と

言われるくらいの整った環境で

大切に育ててもらったにも関わらず


満たされないから

もっと!!!と

求めつづける自分自身のことが

嫌だった。





心が歪んでいるのだと思って、

なんとか人格が変わらないか?と

学びにいき、

自己啓発の本を読み漁った時期もある。




母のことを悪く思う気持ちはなかったけれど、

母のことを褒め、

絶賛する人のことは嫌いだった。


“わたしの気持ちなんて

誰もわかってくれない”と

さらに閉ざしていった記憶はある。




誰にも言えなかっただけでなく、

思っていることやかんじていることからも

目を背けてきたのは


自分のこころの貧しさを

認めたくない気持ちもあったのだと思う。





とにかく

いくつもの気持ちが未消化のまま

自分のなかで燻っていた

3歳から25歳までの私。






そんなわたしが子育てをするのは

地獄でしかなかった。





抱っこ?なぜしないといけないの?

寂しい?そんな感情、あるわけない。

添い寝?なんで?必要性がわからない。

泣いてすがる子供が苦手だった。

スキンシップはわたしから拒否だった。

愛おしいとも思わなかった。

乾いた感情のまま

産んだ責任で育てていたように思う。


それがスタート。







それからいろいろな経験を経て


子どもが本当に愛おしいと思ったのは

つい、4年くらい前のこと。

子どもが無条件に可愛いと思ったのも

子どもがありのままでいいと、思えたのも

子どもが泣いている理由を心から知りたいと思えたのも…

生まれてきてくれてありがとうーと

深いところから湧いてくるきもちと出会えたのも

まだこの4年間のこと。






だからこそ

わかった。


「安心」とか「安堵感」が 

すべての土台にになるということが。





できる自分を見せようとしたり、

自分のきもちを抑えて

どうすべきか?を優先したり、

優等生になろうとしたり、

他者に望まれることを無意識に演じ、

人と自分を比較して安堵するの。


ー偽物の安堵ー


この方法でしか

安心感や安堵感を感じられなかった。





大人になった今、

今更だけど、

自分に本当の安心や安堵感を

自分に味わわせてあげたいと思って

リスタートしている。





自分で自分に

手を添えて、

心を寄せて、

自分の中にある本当の想いを聞いて…

ただただ、そこにいて、

抱きしめる感覚を

教えていくー。





体感が起きるまで

自分に

寄り添い、寄り添い、寄り添って。

どこまでも、何があってもそばにいるー

どんな自分をも受け止めて…


その先で

ホッと安堵できる本当の“ぬくもり”を

感じさせる、


でも、すぐその感覚を忘れてしまうから、


何度でもやり直し。

それをリスタート。


わからないことを

手探りでやっている、





生まれ直し、生き直し中。

我が家の末っ子、ともみです。


@tomomin.marunosekai 


#母娘