ねこのくびわ屋さんAmi
夏コレクション♪

今回は2枚の生地を合わせて
紡ぐ物語。

題して


キーワードは[2]



さて今日の物語は…


美の協創

尾形光琳、乾山兄弟の物語。

No.106    後ろ盾として



歴史上、有名な画家や工芸家には
必ず裕福なパトロン的
存在がある事が多いのですが、

尾形乾山の場合

それは当人も才能溢れる画家
兄の 光琳でした。












[琳派とは?]

堅苦しいお話はなるべく早く
片付けたいのですが、

琳派とは
簡単に言うと、絵の流派
その仲間達♪と言うことでしょうか。

代表されるのは
俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一。

桃山時代後期、
京で本阿弥光悦と俵屋宗達が、創始。
大和絵の流れを汲みながら、
大胆な空間処理と
鮮やかな色彩、金泥・銀泥を
用いて、装飾的な画風を編み出し、
それを尾形光琳と乾山兄弟が確立。
19世紀以降は江戸中心に、
酒井抱一からその弟子鈴木基一と
受け継がれて行った流派です。




尾形光琳




風神雷神図




紅白梅図



乾山の作品は
現代でも通用するデザイン性の高い
ものが多い。

乾山作品





乾山が世に出たのは、
ひとえに光琳が
有力な旗本、大名のパトロンを
弟に紹介したからと言われています。



江戸中期、京都の裕福な呉服商に
光琳、乾山兄弟が生まれます。
本阿弥家の血筋を引く兄弟は、
幼い頃から優れた造形感覚に
恵まれていたと言われています。



三男に生まれた乾山は、その兄
光琳とは全く正反対の性格でした。
光琳はやることなすこと、全て派手!

光琳30才の頃、父が逝去。
兄弟で均等に分けた財産を、
放蕩三昧の末、すっからかんに。

一方弟は野村仁清を師と仰ぎ、
陶工として、すでに
窯を構え、安定した生活を
送っていました。
そんな弟の所へ、
光琳は度々訪れては、借金の
無心をしていたそうです。


光琳が本格的に
その絵に
身を入れて描くようになったのは、
40を過ぎてから。

その一因に、妻や
多くの愛人への見栄が
あったと言うのだから、
相当に放蕩オジサンだったのが
伺い知れます(笑)

それでも元々プライドの高い
芸術家肌。
若い時からお付き合いがあった
いくつものお金持ちの武家屋敷には
顔パス♪

そう言う彼のバッグもあり、
斬新な手法の新しい画風は
当時の武家の間で
かなりの高値がついて
飛ぶように売れたそうです。


そんな事もあり、
やはり玄人好みの作品を作る
弟のプロデュースも買って出た!
と言う事なのでした。


2人はその後も互いの作品に
影響を及ぼし、
共同で制作に当たる事もしばしば。


後に乾山は
『兄は何を描いてもそれが模様になる。
私を作ったのは、師匠の野村仁清と
兄の光琳である』と述べたのでした。







僕にも弟いるけどにゃ〜。
えるにょは
どんな才能持ってるんだかにゃ〜?




No.106 くるみボタン




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ありがとうございました😊