我が柔道 人生に悔いは無し
井上康生
井上康生
『悔いがない』
それは、やりきったということ。
今日は、
自分がなぜ引退したのかをお話ししたいと想います。
長くなりますがお付き合いください。
人生は一度きりしかないけれど
その人生の中で
挑戦は何度でも、できる。
一つの夢を選び
それを自分の”人生”と決めて
片足どころか両足全部突っ込んで
全身全霊で、生きる。
そうして生きていると、
自分の夢だったはずが
いつしか
家族の夢となり
大切な人の夢となり
自分が顔も見たことがない
誰かの夢になる。
自分の声と、
周りの声、
自分の心と、
周りの心・・・
私は引退を決めるとき、
本当に練習ができなくなった。
怪我もあったけれど、
心がマットになかった。
マットに上がると、涙が流れた。
2010年12月、
オリンピックを目指して階級を変え、
5キロを超える減量をすることになった。
もともと体重があまりなく、
減量が得意ということもあり、
特に支障はなかった。
大学に入学する前
顔も知らなかった小原(坂本)日登美先輩が
日本代表を争うライバルになっていた。
この時、私は
日登美先輩と戦う前の準決勝で敗れ、
戦うことはできなかったけれど。
小原日登美先輩は、
心から尊敬する先輩の一人。
手術を乗り越えて
最初のオリンピック挑戦を
同門の後輩である沙保里さんに阻まれ
想い詰めるあまりレスリングから離れ
それでもレスリングへの愛からマットに戻り
2度目のオリンピック挑戦も
沙保里さんに阻まれ。
その後階級を下げ
世界一という有終の美で2度目の引退。
全日本のコーチをしていただき
どうしてもオリンピックを諦められない気持ちから
2度の引退を乗り越え、復帰。
そんな日登美先輩を見ているうちに、
日登美先輩がオリンピックで金メダルを獲ったら、
どれだけの人に勇気を与えるだろう。
感動を与えるだろう。
壮絶な人生を乗り越え、
それでも、それでも
マットに戻ってきた日登美先輩。
尊敬してやまない日登美先輩。
日登美先輩こそ、
オリンピックに行くべきだ。
そして、その人生を
たくさんの人に知ってもらうべきだ。
日登美先輩の人生を知ったとき、
涙を流さない人は、いないと想う。
それくらい、
日登美先輩の想いは、強い。
心から、応援したくなった。
だけど、
私は周りからしたらオリンピックを目指す当事者だった。
家族の期待、
地元の期待、
恩師の期待、
仲間の期待、
そして、会社の期待、
世界選手権に出てからは
顔も知らない人が応援してくれた。
自分の心と
周りの期待が
ちぐはぐになった。
”やるからには、プロ意識をもってやる”
”結果を出すことにすべてを懸ける”
その意識が強かった私は、
オリンピックを心から目指したいと
思わなくなった自分を受け入れられなかった。
周りの期待に応えられない自分を、責めた。
やらなきゃ、
やらなきゃ、
レスリングは私の人生だから。
わたしのシゴトだから。
オリンピックを目指す私に
給料が発生しているのだから。
私を応援してくれる人がいるんだから。
心と体がバラバラになった私は、
週1くらいのペースで怪我をするようになった。
監督が気にしているのを肌で感じた。
そして、ついに
マットに上がると涙が流れるようになった。
もう、できない。
確信した瞬間だった。
中途半端に生きたことがなかったから、
レスリング選手として入った会社もやめる決心をした。
一番最初に、
同じ会社に所属していた
一番仲良しだった後輩二人に打ち明けた。
あとは、誰にも言わなかった。
家族にも。
言えなかった。
期待の大きさを、知っていたから。
7月の全日本合宿に狙いを定め、
初日の夜に、監督に打ち明けた。
監督は、うすうす感づいていた。
合宿最終日、
恒例の山道9キロマラソンで、
登りと平たんだけ、走った。
くだりは、ずいぶん前から足首が壊れて走れなかった。
入学当初はタイムが切れない自分のせいで走りなおしたのに、
負けず嫌いの性格から
この頃は全日本でもトップクラスだった。
2番でくだり地点にたどり着き、
そこからは車で下った。
下る前、山頂からの景色を見た。
絶景だった。
その日まではゴールだけを目指して
前だけを見て走っていたから、
そんな景色があることすら気づかなかった。
20年間、本当に夢に向かってまっすぐ、
他の景色など目に入らないくらい
脇目も振らずに走り続けてきたんだな・・・と
涙が止まらなかった。
こんな日が自分に来るなんて、
考えたこともなかった。
解散前に、
全日本メンバーの前で話す機会をいただいた。
涙が止まらなかった。
みんなが泣いてくれた。
新しい夢を話した。
みんなが応援してくれた。
わたしが、なぜ
女ファイターのためのブランド
”KINGLILY”を立ち上げたいか。
それは、自分の夢でもあるけれど、
私を成長させてくれたスポーツ界に、
私を信じて共に戦ってくれた仲間に、
私を育ててくれた恩師に、
応援してくださったすべての方に、
恩返しがしたいから。
オリンピックで金メダルは獲れなかったけど、
確かに人生をかけてきた今日までに誇りを持っているから。
そしてきっと、
私がKINGLILYを立ち上げ世に出せたなら、
たくさんの人に夢と感動を与えることができるだろうから。
そして、もう家族に心配かけたくない。
もう一度、家族の誇りに、私はなる。
家族の笑顔の素に、私はなる。
だから、諦められない夢なんです。
第2の人生なんです。
絶対負けない。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
私は、心からレスリングをやりきった、と言えます。
新しい恩返しの旅は、
まだまだこれからです^^
きょうも、顔晴ろう。
それは、やりきったということ。
今日は、
自分がなぜ引退したのかをお話ししたいと想います。
長くなりますがお付き合いください。
人生は一度きりしかないけれど
その人生の中で
挑戦は何度でも、できる。
一つの夢を選び
それを自分の”人生”と決めて
片足どころか両足全部突っ込んで
全身全霊で、生きる。
そうして生きていると、
自分の夢だったはずが
いつしか
家族の夢となり
大切な人の夢となり
自分が顔も見たことがない
誰かの夢になる。
自分の声と、
周りの声、
自分の心と、
周りの心・・・
私は引退を決めるとき、
本当に練習ができなくなった。
怪我もあったけれど、
心がマットになかった。
マットに上がると、涙が流れた。
2010年12月、
オリンピックを目指して階級を変え、
5キロを超える減量をすることになった。
もともと体重があまりなく、
減量が得意ということもあり、
特に支障はなかった。
大学に入学する前
顔も知らなかった小原(坂本)日登美先輩が
日本代表を争うライバルになっていた。
この時、私は
日登美先輩と戦う前の準決勝で敗れ、
戦うことはできなかったけれど。
小原日登美先輩は、
心から尊敬する先輩の一人。
手術を乗り越えて
最初のオリンピック挑戦を
同門の後輩である沙保里さんに阻まれ
想い詰めるあまりレスリングから離れ
それでもレスリングへの愛からマットに戻り
2度目のオリンピック挑戦も
沙保里さんに阻まれ。
その後階級を下げ
世界一という有終の美で2度目の引退。
全日本のコーチをしていただき
どうしてもオリンピックを諦められない気持ちから
2度の引退を乗り越え、復帰。
そんな日登美先輩を見ているうちに、
日登美先輩がオリンピックで金メダルを獲ったら、
どれだけの人に勇気を与えるだろう。
感動を与えるだろう。
壮絶な人生を乗り越え、
それでも、それでも
マットに戻ってきた日登美先輩。
尊敬してやまない日登美先輩。
日登美先輩こそ、
オリンピックに行くべきだ。
そして、その人生を
たくさんの人に知ってもらうべきだ。
日登美先輩の人生を知ったとき、
涙を流さない人は、いないと想う。
それくらい、
日登美先輩の想いは、強い。
心から、応援したくなった。
だけど、
私は周りからしたらオリンピックを目指す当事者だった。
家族の期待、
地元の期待、
恩師の期待、
仲間の期待、
そして、会社の期待、
世界選手権に出てからは
顔も知らない人が応援してくれた。
自分の心と
周りの期待が
ちぐはぐになった。
”やるからには、プロ意識をもってやる”
”結果を出すことにすべてを懸ける”
その意識が強かった私は、
オリンピックを心から目指したいと
思わなくなった自分を受け入れられなかった。
周りの期待に応えられない自分を、責めた。
やらなきゃ、
やらなきゃ、
レスリングは私の人生だから。
わたしのシゴトだから。
オリンピックを目指す私に
給料が発生しているのだから。
私を応援してくれる人がいるんだから。
心と体がバラバラになった私は、
週1くらいのペースで怪我をするようになった。
監督が気にしているのを肌で感じた。
そして、ついに
マットに上がると涙が流れるようになった。
もう、できない。
確信した瞬間だった。
中途半端に生きたことがなかったから、
レスリング選手として入った会社もやめる決心をした。
一番最初に、
同じ会社に所属していた
一番仲良しだった後輩二人に打ち明けた。
あとは、誰にも言わなかった。
家族にも。
言えなかった。
期待の大きさを、知っていたから。
7月の全日本合宿に狙いを定め、
初日の夜に、監督に打ち明けた。
監督は、うすうす感づいていた。
合宿最終日、
恒例の山道9キロマラソンで、
登りと平たんだけ、走った。
くだりは、ずいぶん前から足首が壊れて走れなかった。
入学当初はタイムが切れない自分のせいで走りなおしたのに、
負けず嫌いの性格から
この頃は全日本でもトップクラスだった。
2番でくだり地点にたどり着き、
そこからは車で下った。
下る前、山頂からの景色を見た。
絶景だった。
その日まではゴールだけを目指して
前だけを見て走っていたから、
そんな景色があることすら気づかなかった。
20年間、本当に夢に向かってまっすぐ、
他の景色など目に入らないくらい
脇目も振らずに走り続けてきたんだな・・・と
涙が止まらなかった。
こんな日が自分に来るなんて、
考えたこともなかった。
解散前に、
全日本メンバーの前で話す機会をいただいた。
涙が止まらなかった。
みんなが泣いてくれた。
新しい夢を話した。
みんなが応援してくれた。
わたしが、なぜ
女ファイターのためのブランド
”KINGLILY”を立ち上げたいか。
それは、自分の夢でもあるけれど、
私を成長させてくれたスポーツ界に、
私を信じて共に戦ってくれた仲間に、
私を育ててくれた恩師に、
応援してくださったすべての方に、
恩返しがしたいから。
オリンピックで金メダルは獲れなかったけど、
確かに人生をかけてきた今日までに誇りを持っているから。
そしてきっと、
私がKINGLILYを立ち上げ世に出せたなら、
たくさんの人に夢と感動を与えることができるだろうから。
そして、もう家族に心配かけたくない。
もう一度、家族の誇りに、私はなる。
家族の笑顔の素に、私はなる。
だから、諦められない夢なんです。
第2の人生なんです。
絶対負けない。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
私は、心からレスリングをやりきった、と言えます。
新しい恩返しの旅は、
まだまだこれからです^^
きょうも、顔晴ろう。