6月4日は 清水宗治公のご命日 でした。

毛利方の猛将・清水宗治公は、6月になると思い出す人物です。

 

備中高松城の水攻めに当っていた黒田官兵衛と羽柴秀吉が、

天正10年(1582)6月2日未明に織田信長が明智光秀の

謀反でうたれるという第一報を知ったのは6月3日の夜のことでした。

 

備中高松城・城主の切腹を条件に毛利方と和睦を結びました。

天正10年(1582)6月4日の昼前、小雨の降る中

清水宗治主従7人が小舟の上で切腹して果てました。

 

この時、彼らはまだ本能寺の変を知らなかったのです。

もし知っていたら歴史はどのように変わっていたのでしょう。

 

 

備中高松城の戦いは、「日本三大水攻め」と言われています。

 

6日午後2時頃、毛利軍が撤退するのを見届けてから高松を出発、

翌7日に姫路に入り9日京都をめざして進撃開始。

世にいう「中国大返し」です。

 

13日本能寺の変よりわずか11日後、「山崎の戦い」

信長の仇を討ちました。

 

 

城兵5千人の命の保障と毛利・織田の和睦を条件に切腹した宗治公、

自らの命をもって部下の命を守った清水宗治公という人物を

大河ドラマでも描かれていましたが、今も鮮明に記憶に残っています。

 

今年は、清水宗治公が自刀して442年になります。

昨年の6月4日に、備中高松城址にリニューアルオープンした

「備中高松城址資料館」に是非行ってみたいと思っていましたが、

田植えシーズンで、専属ドライバーの都合がつかず断念しました。