加古川の偉人・豊澤團平(その1)

 

高野山奥の院には、有名な武将の供養塔が立ち並んでいます。

 

昨年4月11日、高野山奥の院で偶然目にした豊澤團平の墓(碑)、

加古川出身の豊澤團平の墓があるのには驚き、興奮しました。

 

 

向かって右が初代團平の墓碑です。(2023年4月11日撮影)

 

 

 

 

豊澤團平に関しては、多少の知識はあったものの史上初の

浄瑠璃三味線の名人といわれた初代團平の生涯を改めて辿って

みようと思う気持ちになりました。

 

 

 

初代團平は文政10年(1827)3月21日、

加古川市寺家町に生まれました。

 

この時代は、11代将軍・徳川家斉(いえなり)、シーボルト事件、

江戸の大火、このくらいしか、頭に浮かんできません。

 

幕末から明治にかけて團平は、どんな生き方をしたのでしょう。

 

 

 

 

誕生の地には、駐車場の端っこに「豊澤團平誕生之地」と刻まれた石の柱が

ポツンと立っているだけで、正面を金網フェンスが遮っており、注意して

視ていないと、見落として素通りしてしまいます。

 

家は代々醤油屋でありましたが、父の代で家業が傾き少年の頃、家族と

離れ離れになり、大阪で母の弟(竹本千賀太夫)の養子となり、三味線の

修行をし、三味線の道をきわめ、若くして才能を認められ三味線の第一人者に

なりました。また、三味線の作曲や古い曲の復活、弟子の育成にも務めました。

 

1度目の結婚は、妻は6人目の出産の時、母子とも亡くなったそうです。

2度目の結婚は、西陣の染物業に育った千賀女(ちか)と。

 

再婚した千賀女には創作の才能がありました。

「妻は夫をいたわりつつ、夫は妻を慕いつつ・・」

この詩は千賀が作詞、團平が作曲したものです。

 

 

團平はかねてから「撥(バチ)を持ったまま死にたい」と語っていたそうで、

まさにその通り、明治31年(1898)4月1日、72歳の時、公演中に

倒れ亡くなり 安倍野の禅林寺 に葬られました。

 

團平の長男・平三郎が亡くなった後、昭和19年(1944)に遺族門弟衆が

加古家の菩提寺・常徳寺 の父祖の墓畔に加古家霊位の碑を建て、これに團平の

名を刻んでいます。

 

 

 

常徳寺 

加古川市加古川町粟津377

電話:079-422-7695

 

常徳寺 (2024年3月16日撮影)

山門前に「豊澤團平菩提所」の石碑がありました。

 

 

本堂前を進んで行くと。。。左手に気づき

 

 

 

2体の石像が立っていました。

 

 

 

その横には赤い頭巾をかぶったお地蔵さまが鎮座して

こちらを見ていらっしゃいました。

 

 

突き当りの立派な護摩堂を右に進むと

 

 

 

ありました気づき

 

 


豊澤團平之墓所気づき

 

 

 

 

もっと古い墓所を想像していたので整備されているのを見て

驚きました。

 

 

昭和19年(1944)に遺族門弟衆が建てたという「加古家霊位」

 

 

 

 

「調音院」。。。團平の院号だとすぐにわかりました。

おとなりの「観清院」が長男の院号ですね。

 

 

 

文楽三絃名人 豊澤団平 本名 加古仁兵衛

夫婦で作った「壺坂霊験記」の一部が刻まれていました。

 

 

「妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ」この下りだけは

耳に残っていましたが、豊澤團平をあらためて辿ってみて

奈良の壺阪寺に伝わる「お里と沢市」の霊験談に基づいている

ことを知りました。

 

 

 

壺阪寺

奈良県高市郡高取町壺阪3番地

電話:0744-52-2016

 

壷阪寺の本尊は眼病に霊験あらたかな観音様です。

盲目の夫 沢市とその妻お里の物語である、人形浄瑠璃「壺阪霊験記」に

よって壷阪寺の名は世に広まり、眼病封じのお寺とも呼ばれています。

**壺阪寺HPより**

 

春は桜が見事だそうです♡♡お参りしたくなりました。

ライトアップも始まっているそうです。

 

 

 

加古川にある神社に團平の本名(加古ニ兵衛)で刻まれた玉垣があります。

加古川の偉人(その2)で紹介したいと思います。