11月3日(金)
上月城歴史資料館をあとにして、次に向かったのは佐用城跡。
バスが入らないので、佐用福祉会いちょう園付近から徒歩で道標の通り
歩いて数分。。。。
平和で穏やかな自然が感じられる風景に出会えた。
しばらく歩いて行くと、右手に木々に囲まれた森??
そばに行くまで城跡とは気づかず、案内人さんの説明でやっと納得。
城跡は、田園や民家付近の小丘上にありました。
ここが本丸跡。福原則尚を祀っている福原霊社が鎮座していました。
佐用城(福原城)
■中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、背後に山の「城堅固」の
立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いに置いて鎌倉方の総大将
名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、
赤松三十六家衆のうち福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。
戦国時代末期、東西の精力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城と
ともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の
羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が
造営され、「福原霊者(俗に頭様)」として今に崇敬されている。(原文のまま)
福原則尚辞世の句
「死ぬなれば 花の下にと 思いしに 師走の花の咲くべくもなく」
堀切跡
土塁
あまりにも低い位置にあった城跡に驚いたが、ここは黒田官兵衛と
竹中半兵衛による城攻めが行われたところと伝わる。
黒田官兵衛が先陣をつとめ、城の三方を囲み攻撃したという。
一説には、佐用城は福原城と高倉山城の二つがあり、官兵衛が落としたのは
高倉山城のほうという。。。歴史は難しいと感じている城のひとつです。
四方が大木の緑に囲まれた本丸跡に佇み、小規模な城だが歴史上、
重要な役割をした城に間違いないことだけは感じ取れました。
次の行程は、お腹も空いて昼食が楽しみ笹ケ丘荘へ
佐用城(福原城)跡
兵庫県佐用郡佐用町佐用字福原