神吉城主の石垣が新聞にとりあげられてから
お世話になった方々から電話やメールがありました。
「播州黒田武士の館」の館主さんからも電話をいただきました。
「神吉城主の石垣が、加古川の新名所になりますように」と
言っていただき、本当にそうなればいいなと思いました。
「播州黒田武士の館」というのは
黒田家研究の私設博物館なのです。
これほど、個人で黒田家に関するものを保存管理されているのは、
どこを探しても他にないと思います。
初めて訪れたのは、平成25年10月27日でした。
黒田家に関する貴重な資料が所狭しと展示されていました。
福岡黒田藩祖 黒田如水 復元兜
黒田官兵衛の復元兜(十字架前立付)
福岡黒田藩初代 黒田長政公の兜
黒田官兵衛 と 黒田官兵衛 復元兜
本山コレクションの中の一品。
(写真は、2013年10月27日に撮影したものです。)
光姫が福岡城の大奥で使用していた懸盤と伝わっているもの。
江戸期 本歌
光姫ファンには喉から手がでるほどの代物です。
本山一城 作 黒田官兵衛・長政と二十四騎(2013年10月19日撮影)
本山先生のご好意で冊子に使わせていただきました。
現在も貴重な資料が増え続けていると思います。
官兵衛のことが何でも分かる記念館を官兵衛のふるさと姫路に設立しょうとする
動きがあることを知りました。実現できれば、いつでも官兵衛さんにあえますね。
そうなればいいですね。
「軍師官兵衛その妻の故郷を訪ねて」(平成25年11月28日発刊)の、
黒田武士の館での取材で、光姫の姉というページが生まれました。
光姫の姉
光姫には姉がいました。上月城主の妻だった姉は秀吉が上月城を
攻めた時、壮絶を極める戦いの中、2人の子供を連れて官兵衛を
頼って下って来ました。光姫は、姉の子供たちをわが子のように
可愛がったそうです。織田信長の人質に出されていた息子・松寿丸の
面影を求めていたのかもしれません。
黒田長政は、天正十六年(1588)、伯母の妙寿尼を中津城に迎えました。
その後、長政は関ヶ原合戦の功により筑前五十二万石の福岡藩主になり、
妙寿尼も福岡城に移りました。光姫と妙寿尼は、この時期、姉妹で穏やか
な日々を送っていたと思われます。
福岡県宮若市にある光明寺に、妙寿尼の墓があります。旧鞍手郡内では
最古の墓で「慶長墓」と呼ばれ歴史的にも貴重な墓といわれています。
上部に梵字入りの大きな墓石で、その銘には
「量誉妙寿尼公大姉 慶長十八年十一月十九日卒」と刻まれています。
妙寿尼のお墓とお位牌(写真は「播州黒田武士の館」より提供)
宮田町誌によると、光明寺と櫛橋家とは、深い縁があるようです。
「近き頃までハ此寺に岡本七太夫正俊より寄付し祭田の地も有しか
今ハなし。正俊は櫛橋宗雪甥にして則伊の孫也。又此寺に山林5千坪を
寄付し給ふ券文あり。」(昭和53年4月25日)と記されています。
冊子「軍師官兵衛その妻の故郷を訪ねて」より
「播州黒田武士の館」の館主さん!大変お世話になり、
ありがとうございました。 ※(黒田武士の館:姫路市飾磨区妻鹿東海町)