実家で暮らしていた頃、
私は、私が早く死ねばいいのにと思っていた。
小刀も買った。
先が鋭く尖った、木の柄(え)の小刀。
でも、刺して死ぬのは痛くて苦しそうだから、
明日の朝起きたら、私が消えてなくなっていればいいのにと思ってた。
死ねないのなら、せめてこの心が死んでなくなればいいのに、何も何も、感じなくなればいいのに!
鞘に収めた小刀を握って、その手で自分の左の胸を何度も叩いた。
この世の中のこと何も、誰の言葉も何にも、何も感じなくなれればいいのにと思ってた。
そして、私にとって親は、近くにいて、近くない、《親しき仲にも礼儀あり》、そんな存在だった。
そして、私はずっと、私が嫌いだった。
卒業アルバムも、シュレッダーにかけて捨てた。
そんな私にも子どもが出来た。
子どもが来てくれた。
でも、私はどこかで恐れていた気がする。
『この子は私を好きじゃない』
子どもはお母さんが好きであろうはずなのに、
私はこの子に愛されているはずがない、
ずっとそんな思いがあった。
そして、子どもが大きくなるにつれ、今度は、
《この子が私を好きじゃなくても、それは仕方がない。でもせめて、こんな親(私)に育てられたからといって、私のように自分を嫌わないで欲しい。自分を責めないで欲しい。苦しまないで欲しい。》
そんな思いを持つようになっていった。
そう思う傍らで、私は時に子どもを執拗に怒ったり、怒鳴ったり、手を出してしまっていたこともあった。
怒っている時は、自分を正当化して、子どもに腹を立てて怒っているのだが、
それでもそんな生活をしつつも、私は子どもに、
《自分を嫌いにならないで!苦しまないで!》
そう願っていた。
そして、気付けばそんな思いを持ちながら育てた子どもも、中学生になった。
(多分、続く)