初心者から中級者の段階では、大きな声で、飛びかかるような掛かる稽古を積むことは大切だと思います。試合でも大きな声を出して旺盛な気勢を養うのにも役立つでしょう。

 

でも上級からはこの旺盛な気勢や試合などで得た様々な経験を無意識下に納めていくことが肝要だと思います。

いつまでも、旺盛な気勢丸出しのままでは、いつまで経っても無意識と有意識の違いを感じての心法に移行しませんし、スポーツから武道へ昇華しないと感じます。

 

剣道の教則本の中には、大きな声の必要性を説くときに、五輪書の火の巻の「三つの声」を引用しているものがあります。

 

三つの聲と云事。
三つのこゑとハ、初中後の聲と云て、 三つにかけわくる事也。 所により、聲をかくると云事、専也。 聲ハ、いきおひなるによつて、火事などにもかけ、 風波にも聲をかけ、勢力をミする也。 大分の兵法(集団戦)にしても、 戦よりはじめにかくる聲ハ、 いかほどもかさを懸て聲をかけ、 又、戦間のこゑハ、調子をひきく、 底より出る聲にてかゝり、 かちて後に大きに強くかくる聲、 是三つの聲也。 又、一分の兵法(個人戦)にしても、 敵をうごかさんため、打と見せて、 かしらより、ゑいと聲をかけ、 聲の跡より太刀を打出すもの也。 又、敵を打てあとに聲をかくる事、勝をしらする聲也。 これを先後のこゑと云。
太刀と一度に大きに聲をかくる事なし。 若、戦の中にかくるハ、 拍子に乗る聲、ひきくかくる也。 能々吟味有べし。

 

でもここで武蔵は、戦が始まる前と、勝った後の声を「先後の声」というと書き、しかし「太刀で打つと同時に大きく声をかけることはない。もし、戦闘中にかけるとすれば、拍子に乗る声を低くかける」と書いています。

 

相手を動かすために、打つと見せて、打つ直前に「えい!」と声をかけた後に太刀を打ち出すことはあると書いているものの、「メン」「コテ」などと叫びながら声と同時に打つことはないということですし、剣道で蹲踞から立ち上がったところは剣を抜いて構えあったまさに戦闘中ですから、そこで声高に叫ぶこともないということ。

 

そんなところで大きく声をかける暇などなく、もうとっくにいつでも斬れる(斬られる覚悟も含む)精神状態でないといけないからです。

 

戦闘中は「よっ」と短く低く声を出すぐらいはあるでしょうが、長々と「うおりゃ~!!!!」「いや~~!!!!!」はないということだと思います。

 

無意識の必然の打ちを出現させるためには、有意識をどのような状態に置くかを練る必要があります。別記事、無意識の打ち(必然の技)

 

 

有意識には色んな雑念が浮いてくるのですが(当然、私の修行不足もある)、不必要なものは無視して、静かな気持ちをキープするように感覚を研いでいく必要があると思うのです。

 

「不必要なものは無視して」というのは、有意識としては「攻めない。打たれる覚悟で先に入っていく」などなどをイメージ化してることはあるのですが「あれ?小手を打ったら当たるんじゃないか?」「今、ドカーンと面が打てたらかっこいいぞ」なんて信用ならない経験則がささやいてくるんですが、それを無視します(本物の閃きなら閃きと同時に打ち終わっている)

 

無視するために心静かにリラックスしていることが大切に思うのですが、「どりゃ~!!」と大声張り上げてしまうと雑念のささやきが強くなる印象があります。

 

この感覚は分かってしまえば普通のことだと思うのですが、現代剣道の常識からは外れちゃうので、同じ感覚の方は少数派になってしまうようです。

さみし~(+_+)

 

いつも思うのが、稽古前に正座して黙想し、せっかく心を静めたのに、竹刀をもって立ち上がったら、いきなりその心を大声で自らぶち壊すというのは、いかにももったいないということなんです。

 

心静かなまま、全ての感覚を開放して、先に打たれる間合いに入ってくことが大切に思います。そこが、ほんとに武道の味わい深いところなんですよね。

でも、誰も分かっちゃくれないですが。

 

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