片腕の夢は日常 -19ページ目

片腕の夢は日常

ひそやかに、高らかに、ゆるゆるに、くるくるに、
fromここtoうちゅう

noteからの転載です

 

6/18「ワタシニダケ」

 

中学生のときに
テクノとか洋楽など音楽の趣味があって仲がよかったIくんという男子がいた。
80年代の当時の中学生の男の子っぽくなくて(笑)
音楽好きというのもあったのかな、ファッションやアートとかにも興味のあるような男の子だった。


私たちは仲がよかったので
ガキンチョ特有の「あいつとあいつはデキてる〜」みたいなのもあって
「蜜蜜子ちゃんはIのこと好きなの?」と聞かれることもよくあった。
でも私は別に異性として意識していたわけでもなく
ただ本当に仲がよかっただけだった(私は別に好きな男子がいたし)。

 

ある日、同級生の男子がニヤニヤしながらやって来た。


「Iに蜜蜜子のこと好きなんじゃないかって聞いてきてやったぞ」

余計なことしやがって。
馬鹿じゃないかと思ったが、まあこういうことをする世代だから、と気にしなかった。

「Iはお前のことも好きだけど、E(同級生の女子)のことも好きでどっちか迷ってるんだってさ」
「蜜蜜子は趣味が合うしいいヤツだから好きだけど、Eは顔が好きだから迷ってるんだってよ」

と言ってきた。

***

 

同じようなことが高校の時にもあった。
ほぼ似たような感じだった。

 

男って馬鹿じゃないかと思ったけれど、
Iのことも、高校の時の男子のことも別に嫌だなと思わなくて
それからも普通に友達として付き合った。

Iも高校の男子もどちらも結局、私ではなくもうひとりの女子たちに
告白をして、見事フラれていた。

 

***

 

でも、今、絶賛、インチャケア中の私は振り返ると
あの、中学生の頃の蜜蜜子も、高校の時の蜜蜜子も
傷ついていた。
悲しかった。

 

好きでもない男子達ではあったけれど、
「顔」と「趣味」という別々のものを自分の右と左に並べて
あっちも好きこっちも好きとされていることを
馬鹿にされている、軽んじられている、と感じた。


私と遊んでいる時には私を好きって思って、
別の好きな女子と一緒にいる時はその子を好きと思っていたんだと思うと
とても嫌な気分になった。

そういう気持ちを持ったこと、ずーっと押さえ込んでいた。
だって、私、別に彼らのこと好きじゃなかったし。
別に好きな人がいたし。

でも、そういうことじゃなくて、
私は「蜜蜜子だけが好き」と思ってもらいたいと思ったのだった。
あの時、そう確かに感じていて、でもされなくて悲しかった。
今思うと、10代の軽い好きなんてどうでもいいけれど、
当時の私は間違いなく悲しい嫌な気持ちになった。


「蜜蜜子だけ」「だけ」というのが私には重要だった。

 

***

 

それは、やっぱり私は姉とのことがあったからだ。
母親が大事に大事にしていた姉。
私はいつも除け者だった。

私はお母さんを独り占めしたかった。

お母さん、私だけを愛して。
私だけにご飯を作って。
私だけに笑って。
私だけに話して。
私だけとお出かけして。
私にだけに何か買って。

私にだけ、私にだけ!!!
なんでいつもお姉ちゃんばっかりなの!
お姉ちゃんなんて大嫌い!

そしたら姉が死んだ。
私はほくそ笑んだ。
これでお母さんは私だけのものになると思った。

でも、ならなかった。
姉は亡くなったことで母にとって不動の地位を築いた。

***

 

だから私は、お母さんにではなく
他で、「私だけ」を求めた。
友達に、恋人に、夫に。

私とだけ遊んで。
私とだけ仲良くして。

そういう気持ちをいつも抱えていたから
私はいつもいつもいつも飢えていた。
いつも、誰かを独り占めしたかった。

友達に対してもそうだったけれど、
友達にはそれは出来ないと、わかったのは
かなり大人になってからだった(馬鹿だね・・・)
(もちろん今はそんなことは思わないけど)

もちろん男性に対してもそれを求めた。
友達ではなく、
男性なら、恋人なら、夫なら、それを叶えてくれる!

でも、何故だかいつもそれが叶わない状況になる。


ある人は
美味しいものを私にだけ持ってきてくれると思ったら
別の女性にも同じものを持っていってあげていた。

 

ある人は
美しい光景を私にだけ見せてくれていると思ったら
同時に別の女性にも見せていた。

 

いつもいつもいつもそうだった。
もちろんそれは、二股とか浮気とかではなかったけれど、
私は、とにかく、どんな事情があろうとも
並列に並べられている、というのが本当に嫌なのだ。

ナンバー1ではなくオンリー1になりたかった。

世界で一番美しい薔薇を私にくれて
別の人には普通の薔薇をあげるのではなく、
私にだけ薔薇をプレゼントして欲しかった。
値段や品質や数なんか関係ない。
スーパーで買った薔薇でもいい。
とにかく別の人も、ではなく、私にだけ、が欲しかった。

でもそれはいつも叶わなかった。

私にだけ、という人はいないんだ、と思った。

***

 

今、過去の自分と向き合い始めたのは
「世界は私が投影したものだ」
ということを、ほぼ納得できたからだ。
ずいぶん前からこの概念は言葉としては理解していたけれど
でも信じたくなかった。

どうしても、どうしても、「私にだけ」が得られないのは
私がそういう現実を創っているからだ、という基本に立ち返り
再び、子供の頃の自分と対話をしている。

大元である、母と姉と私との関係性も
もうずいぶん前からわかっていたつもりだったけれど、
子供の私はまだ全然、納得していなかった。
まだ「私だけ!私だけ!」って怒りながら泣いている。

私は私を抱きしめる。
「どうせあなたも他の人にも優しく抱きしめるんでしょ!」と
怒るので、背中をポンポンしながら
「私だけだよ」と言ってあげる。
その隣には今の私もいる。
今の私はこう言っている。

「「私にだけ」って言うなんて、私はなんて自分勝手で我儘な人間なんだろう」

と俯いている。
そんな私にも私は抱きしめる。

「いいんだよ、嫌に決まってるよ。
悲しいに決まってる。自分を責めることないよ」

じっくりやっていこう。
ちゃんと自分から出たものを掬い上げてあげよう。
もう、隠したりしない。
どんなに醜くても、どんなに汚くても。

noteからの転載です。

こういう記事を書きまして

 

++++++++++
 

「再びのwhat a wonderful my world」
 

この前、
ある人Aがある人Bの所業について悪意たっぷりに書いている言葉を見せてもらって
それは長々と嬉しそうに書かれていて
うんざりして途中で読むのをやめた。

 

ある人Bというのはちょっと病み気味・サイコパス的な攻撃を
気に入らない人に対してする人だから
責められて当然のところがあると思うが
それをネタに嬉々として語る人の言葉を目の当たりにして思ったのは


AさんとBさんは同じ質の人なんですね

ということだ。
まるで「私はBと同じです」ってみんなに触れ回っているみたい。

最もうんざりしたことは
ある人Aがある人Bの職業について触れたことだ。
ある人Bの所業とその人の職業になんの関係があるというのだろう。

なんと醜い・・・・。

でも、これは紛れもなく「私が創造した世界」で起こっていることなのだ。
それをいつもこうやって気づかせられる。
だから、その都度、虫眼鏡で自分を点検できる。
アノヒトたちはワタシです、はい。

*
ちなみに職業に関してこれを書いた時に思い出したことがある。
忘れてはいけないことなので
後でまた書こうそうしよう。

職業に貴賤はない。
絶対に、ない。
でも、そう言っていたってどこかでそう思っていない自分もいるんだ。
絶対に、いる。

そういうハナシをまた後で。

 

++++++++++

 

で、そういうハナシというのが以下です。

 

++++++++++

 

「再びのwhat a wonderful my world」

 

「職業」ということを書いたときに
ふと、以前に自分が書いたある記事を思い出しました。


自分の中で、「これが私だぞ」と、忘れたくないことです。
でもすごくすごくすごーーーく、そんな風に思いたくないことです。
これが自分だなんて信じたくない。
だからこそ、さらします。
忘れないようにしたい。そう思って書いた記事でしたが、
それは有料のマガジン内で書いたものでした。
もうそのマガジンを読んでくださる方もいないと思うので、
ここで再度さらすことにしました。


忘れないように。


(「てにをは」を訂正したり、読みづらいところは加筆・削除をしています)

 

++++++++++++

去年、私が好きだった有名な劇団のイベントのひとつへ行きました。
それはその劇団の初期に在籍して、今はいらっしゃらない役者さんが
今はどうされているのか、
現在の劇団員が訪ねる、というドキュメンタリー映像でした。

私はその劇団の初期の方が本当に大好きで
今回、ご出演される当時の役者さん二人共、大好きだったので
とっても興味がありました。

一人目のTさんは
今は内装業の現場監督をされご結婚もされていました。
お仕事でご活躍されている場面も流れました。
その場面を見てホッとしました。

二人目はYさん。
実は私はこの役者さんが本当に大好きで、
この劇団を辞められた後、数年後に別の小さな劇団で名前を見つけたときは
役者を続けられていたことが本当に嬉しくて
いそいそと観に行ったものです。

映像の中で
Yさんに会いに行った古参劇団員がYさんに尋ねました。
「今、何をされているんですか?」
「クリーニング屋で働いています」

ク、クリーニング屋・・・・!?

私は瞬時に、こう思いました。
「あんなに役者として才能がある人がクリーニング屋・・・・」
「クリーニング屋を経営しているわけじゃないんだよね?」

私はYさんを思って少し気の毒というか惨めな気持ちになりました。
あんなに役者として才能がある方が一店員になっていることに
切なさを感じた・・・・というのもありますが。

もし、職業がもっと華やかな感じだったら、
少しでも芝居に関わることだったら、
中小企業の会社員だったら、
職人だったら
まだこんな切ない気持ちにはならないのに・・・・・。
なのに、クリーニング屋って・・・・。

私はそう思ってしまったのです。
なんて失礼な考えなのでしょうか。
クリーニング屋の何がいけないの?
クリーニング屋だと惨めなの?

ほらね、私ってこうなんですよ。
実はクリーニング屋を惨めだと思ってるんですよ。
言うなれば大雑把に分けると下流の職業だと思っているフシがあるんですよ。
私は自分が下流の世界を生きているって思っていて
同じような世界に生きる人たちに愛着を持っている。
とか言ってるけどさ、
どうですか。
どこが下流でどこが上流とか勝手に決めつけてるんですよ?
ひどくない?
クリーニング屋は?下流なの?
大企業は上流?コンビニの店員は下流?

 

下流と上流ってなんすか?
はあ?????クソだな、あたし。

 

「仮面をつけた間違い人間」(※有料記事で書いたことがあるもの)という記事で
私はこう書きました。

 

【底辺ではいつくばって生きている人を愛しいどころか、
蔑んでいたのは他でもない自分だったとは】


まさに、コレです。
結局は蔑んでいるんですよ、私は。
いや、それだけじゃない。

そもそもさ、
(繰り返しになるけれど)底辺とかってなんだよ?って話でしょ。
何かを底辺だと決めつけることの醜さったらないでしょ?

もうあまりに醜すぎて自分を嘲笑うしかない。
私はこういう浅ましい間違いだらけの人間なのです。

 

クリーニング屋でお仕事されている方々、本当にごめんなさい。
私もよくクリーニングを利用します。
とってもとっても助かっています。
特殊な技術で洋服をキレイにしていただく方々、
それを受け渡ししてくださる方々、
そこに関わる全ての方々に謝罪と感謝をします。
Yさん、あなたを一瞬でも哀れんだ自分を私は心から恥じます。

****


久々に読んでみて
自分の醜さにヘドが出そうになりましたが、
この醜さを忘れてはいけないのでさらしました。

6/16に書いた「what a wonderful my world」という記事で
「最もうんざりしたことは
ある人Aがある人Bの職業について触れたことだ。
ある人Bの所業とその人の職業になんの関係があるというのだろう。
なんと醜い・・・・」
と書いた、その張本人が一番、醜かったという。
だから私はこのときの記事に
「アノヒトたちはワタシです、はい」
と書きました。

 

他人に対して非難しているとき、説教しているとき、
それは
他人にではなく
自分自身に言っているのです。

なぜならこの世界は私が創造したから。
ここは私という映写機が投影した世界だからです。
自作自演です。

卑下しているのではないです。
いや、愚かだなぁとは心から思っていますけれど(笑)
同時に
よかったなぁって思うのです。
こうやってあからさまになることで
私は自分の世界を変えることができるから。

ジャッジしないでただ観察して、ただ変えればいいんです。
チャンネルを別のものにすればいいんです。
フィルムを別のものにすればいいんです。
そう自分自身に、優しく伝えました。

ありがとう、世界。

 

 

++++++++++

 

 

という感じにnoteで書いた2つの記事を転載しました。
私は偏見や思い込みの多い人間です。
こういうことがあると本当に落ち込んでしまい
自分の何もかもがイヤになります。
どれだけひどい人間なんだろう、

長年生きてきて何を学んできたんだろう、
だから駄目なんだ、と責めてしまいたくなります。

 

でも、記事の最後にも書いたように
そんな自分のことも
「ああ、責めてるな、私」

って観察して、そうっと抱きしめて黙ってよしよしします。

 

この繰り返し。
こんなことしてどうなるんだろうって思うときがあるけれど、
どうなるもこうなるも
ゴールはないし、ゴールは今この瞬間でもあるので
ただそうします。

 

今日はちょっと気持ちが沈んでいます。

 

 

 

 

 

 

 



 

 

noteからの転載です。
6/15「キャンディキャディを脱いで、そして選択する」
https://note.com/kataude/n/n6507b523de26


 

昨日、話の流れから「キャンディ・キャンディ」の話を家人にしていまして。
相手は作品を読んだことがなかったのでおおざっぱなあらすじを説明している中で
キャンディとテリィとスザナのくだりを話しておりまして。

キャンディとテリィは深く愛し合っております。
一方、舞台仲間であるスザナもテリィを好きだけれど当然相手にされず。
このスザナがけっこうたくましくて(苦笑)振られてもテリィをあきらめないんですよね。
そんな中ある日、舞台稽古中、テリィの頭上に落ちてくる照明器具からスザナが身を挺してテリィをかばい、
スザナは片足切断という重症を負ってしまいます。
テリィは自分の責任であるという罪悪感に苛まれます。
スザナを見捨てることができないテリィ・・・。
結局、キャンディは身を引くことを決意し、二人は別れることになるのでした。

くぅ・・・・愛し合っているのに別れなければいけない・・・
この場面、本気で泣ける・・・・。

(画像はお借りしました)


このクダリ、私は本当にその展開が悲しくて
スザナが大っっ嫌いで、
子供の頃、「なかよし」を読みながらスザナのページを破ったことを今でも覚えています(苦笑)


事故の前の、スザナのなんとなく自身満々かつ姑息な感じもイヤだったけれど、
事故後にテリィに「私の身体をこんな風にしたのはあなたよ、だからあなたは私と一生共にいる義務があるのよ」みたいなことを言っておきながら(というか、テリィのせいじゃないし!)
その後すぐに涙を流しながら
「うそよ、そんなこと思ってない。あなたのせいじゃないわ。だから、あの人(キャンディ)とお幸せに」
とか言うわけですよ。

優しいテリィの罪悪感のツボをドンピシャで刺しておきながら
健気さも見せる
典型的「悲劇のヒロインじゃないから大丈夫よ(涙)」みたいな
「裏」悲劇のヒロインに酔う人・・・・・。

もちろん右足切断だなんて、そりゃもう大変な苦痛かと思うので
(ましてやスザナは女優だったから役者としての人生も失ったわけで)
精神的に混乱してしまうのは当然のことなんですけどね。
それは大人になったからそう思えるんですけれど、
子供だった私は、こういう全てにおいて弱そうで強いみたいな、
いさぎよくない女が本当に嫌いで嫌いで、
昨日、家人に話しながらまたあの時の気持ちが蘇って
ページを破り捨てたくなりました(笑)

子供心に、いや、大人になってからもだけど
自分がスザナだったら、って考えることがあって
どう考えても、テリィにすがりつくっていう選択が自分にはないから
理解不可能なんですよね。
哀れみで隣にいられても屈辱しかないもん。
プライドがないのかと思ってしまう。
自分といてテリィが本当に幸せか?という点でもそういう選択ができない。
でも、スザナって美人で人気女優で期待されていて両親に愛されて育って、という
自信たっぷりの子だったから
テリィを振り向かせる自信も幸せにする自信もあったんでしょうね。
私自身とは違いすぎるから、そのプライドの種類も違うわけで
絶対に好きになれないキャラだし、なんなら嫌悪すら覚えたので
ページを破り捨てたんでしょうね、私。

メルカリで出品されていたコミックス!
スザナのところが塗りつぶしてある・・・・(怖)
・・・・・私が何十年も前に古本屋で売ったやつか?(違笑)

(画像はお借りしています)



**
 

ここで急に話が変わります。
先日、服部みれいさんがyoutubeで
自分を一旦ゼロにする、自分と打ち合わせる、というときに
まず、自分の年表を書いたというお話をされていました。
その中で自分が子供時代に呼んだ少女漫画にけっこう考え方の影響を受けていたことに気がついた、みたいなことをおっしゃったんですね。

それを聞いていて私は
「私だってかなり少女漫画読者だったけれど、さすがに考え方の影響とか、それはないだろ~~~」
って思ったんです。
 

が。
 

が。

受けてたわ~~~~!
かなり影響受けてるわ~~~~~~!!!

って、昨日、気がつきました(笑)

**

スザナ問題で、一方のキャンディは
スザナの苦悩とテリィへの想い、そして何よりテリィの苦しみを理解したから身を引きました。
アルバートさんの
「スザナを見捨てなかったテリィだからこそキャンディは好きだったんだろう」
というセリフの通り、キャンディは自分のことよりもまずテリィのことを考えて身を引いたのですね。

健気・・・・・っ。
これぞヒロイン、これぞ本当の愛というのだわ!!

 

と子供心に強く植え付けられたのです。

と、ここまで書いて思い出しました。
私が同時期にハマっていた、というか当時の少女たちも同時期にハマっていたと思われる

 

「はいからさんが通る」

 

こちらにも同じシチュエーションのエピソードがあります。

戦争で記憶を失った伊集院忍(以下、少尉)は異母兄弟であるサーシャの妻であるラリサに命を助けられ、ともに日本に帰ってきて、サーシャとして伊集院家で暮らすことになる。
そんな中で、少尉はだんだん記憶が戻ってくるのです。
紅緒を愛している少尉。
でも、命の恩人で病弱、異国から来て身よりのないラリサを見捨てることができない。
ラリサも当初は戦争で亡くなったと思っていたサーシャが生きていたと思っていたけれど、のちに別人だと気がついたものの、
サーシャとしてではなく、忍自身を愛してしまったので少尉の手を放せない。
それを知った紅緒は、
やっぱり、ラリサの境遇と少尉への想い・少尉の苦しみを知ったことにより、結局、身を引くのでした。

 

これぞヒロイン!!これぞ、本物の愛!!!!(再)

(ちなみに、こちらは後に、(やっぱり)ラリサが落ちてきたシャンデリアから少尉をかばって自身が命を落とすわけですが、
「私のあげた命、あなたの愛を取り戻して」
という言葉を告げてくれたことで、少尉は紅緒の元へ行きます)

**

そうやって幼い蜜蜜子は
自分の気持ちよりも相手のことを考えて生きることこそ、
本当に愛しているということだ、
という観念をしーーーーっかり染みこませたわけです。

そして、
スザナのような女性は「好きな人をも苦しませる自分勝手なみっともない女」というレッテルが
しっかり貼られたのでした。

おお~~~~~!←?

みれいさんがおっしゃったことって

そういう、何やかやに影響された観念を一旦ゼロにしてみようってことですね。

正しい間違っている、良い悪いじゃなくて、
今一度、自分の価値観ってどこからきているのかを洗い出してみると
それって決して絶対的なものではないということがわかる。
 

一度、生まれたての赤ちゃんのようなまっさらな自分に戻ってみると
「今はこういう価値観、観念、考え方って選択しなくていいかも」
って思えて、
じゃあ何を選択する?と決め直せるじゃないですか。。

私たちって
親の価値観がベッタリとくっついていて
その上に、先生や友達・近所の人の他に社会の声、
目や耳にしたものなどなど、長年、いろいろなものから影響を受けて
あたかもそれが「これが真実」「これが私」と思っています。

そういうことに気がついて、剥がして剥がして剥がしまくり、
まっさらになった時に
「じゃあ本当はどうしたい?どうなりたい?」
と魂に問いかけて、そうしてみる。
そこにジャッジはなし。

これが(ほっんと~~にいつも言うけれど)
星の坊主さまの「自己一致」であり、みれいさんの「あたらしい私」になることだし
kaiさんがおっしゃる「太陽の時代」を生きていくのに大切なことなのかもしれません。

**

相手の幸せとかよりも、まずどうしたら自分が幸せなのか、を考える。
漫画のヒロインみたいにならなくったっていいじゃない。
健気でなくてもいいじゃない。
スザナでもいいじゃない。
自分が幸せじゃないと、愛する人が幸せになれるわけがない、世界が幸せになれるわけがない。
本当の愛なんて、本当はわからない。
わからないけど、まずは自分に愛に、ではないですか。
(本当に自分に愛を注いでいる人は決して傍若無人にならないはず。)
正しいことなんてないし、間違いもない。

ヒロインのライバルという立場以上に憎まれっことして
描かれたキャラクター、スザナ。
挫折をせず愛されて育ったスザナも
人生最大の苦悩に見舞われ
それでも幸せになりたくて、もがき苦しみながら生きる。
スザナはスザナの心のままに。

私も、アノヒトもコノヒトも
自由に、好きに、生きていけばいいのです。
誰になんと思われようと
それぞれの魂から出てきたものは、とてもとても美しいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

noteからの転載です。

 

自分が想像している以上に

自分って自分じゃない思考にとらわれていたんだな、

思い込みってすごいなぁ、

というハナシです。

 

 

***

 

 

「片腕子さんはどうなりたいの?」

と聞かれたので

「大らかな気持ちで「いいわよ、あなたのお好きになさい」って

心から思えてそう言ってあげられたらいいなぁって思う」

 

と答えた。

すると、もう一度聞かれた。

 

「片腕子さんは本当にそうなりたいの?」

 

一瞬、考えて
でもその一瞬を上回る勢いで私はこう言った。

 

「ううん、本当はそんなことしたくない」

 

「ならやらなくていいんですよ。だってそんなことしちゃったら、
それは片腕子さんじゃなくなってしまうじゃないですか。
片腕子さんらしくなかったら誰も嬉しくないよ」

 

**

 

先日、お世話になっている鍼灸師であるあず姐
おしゃべりという名のカウンセリング?
カウンセリングという名のおしゃべり?
をしました。

 

あず姐は
「目の前に起こることは自分の投影である」
「世界は自分自身が創っている」「自作自演である」
「全て自分が選んだ結果である」
という前提が同じなので、話していてしっくりくることが多いのです。

この前提は、説明できるものではなくて
私たちはもう当たり前だと思ってしまっているので
証明することなんかできないし意味ないと思っています。

というのはともかく、
そんな中で、今まで気がつかなった

新たな見方や目線・無意識にやってしまっているクセをご指摘いただけました。

冒頭の会話もそう。
「どんな気持ちもジャッジしない」「本当の自分の気持ちを大事にする」
なんて言っておきながら、そして、そこを気をつけていながら
無意識に「自分じゃないもの」になろうとしちゃってた(苦笑)

「大らかな気持ちで「いいわよ、あなたのお好きになさい」って心から思えてそう言ってあげられたらいいなぁって思う」

いつかどこかで見た「理想の女性象」です、これ。
太陽のように明るくて、母なる大地のような大きさと優しさを持つ女性・・・
そうなれたら相手はもっと私を愛してくれるかもしれない。
だからずーっとそうなろうそうなろうって思っていたけれど、
パターン化された「理想の女性」にならなくていいのに・・・
無理してなりたくもない自分になろうとして、
結局なれなくて、なれない自分にバツをつけていました・・・。

い、いつものパターンじゃないか・・・・(;´Д`)

目線を変える。
太陽のように明るくて、母なる大地のような女性になった私は、
じゃあ、たった今の私をどう受け止める??

「いいよ、別に無理してそんな風にならなくたって。
片腕子の今の想いが一番大事だよ」

そう言うよね、絶対に。
片腕子そのままでいることが、蜜蜜子になることなんだから(ややこしい!)

「いっか、じゃあ、そうならなくても」
と言ったら
あず姐も
「ならなくていいですよ」
っておっしゃった。

 

理想の女性像を探ることよりも大切なことがある。
ひとつひとつ丁寧に点検する。
自分じゃないことしようとしてない?
「あ、私、自分の気持ちを無視しちゃったな」
「そうか、こんな風に思っているのか」
「それ、本当に私の想い?」
いつもの癖にも気がつく。
そこにジャッジメントはひとつもいらない。
ただ、観察する。
この瞬間の自分を、観察するだけ。

なりたい自分なんかどうでもいいよ、今は。
今、どうしたいか、だけが大事なこと。

ちょうちんぱんちら~ズ活動記「くるくる日記」です。
執筆担当は、じっくりじゃなくてすぐに変わってもいいんじゃない?な、赤い方です。

先日、ちょうぱんズ音楽活動のプロデューサーをしていただいている
Prf.Kが
「そういえばこんなのあったよね」
と動画を見せてくださいました。

 

 

 


ちょうど1年前くらいにPrf.Kが私たちのイメージ映像を作ってくださって
それが今まで限定公開だったんですね。
でもあまりに素敵な出来だったので
このたび、公開することにいたしましたよ~!

Prf.K渾身の!「時計じかけのオレンジ」風味の映像です。
時計じかけをご覧になったことがある方はおわかりかと思いますが
あの作品のOP映像風になっております。
ビデオをお持ちの方は見比べてみてね( *´艸`)

曲はもちろん「メアリー女王の葬送曲」です。
Prf.Kの冴えわたるアレンジをお楽しみいただければと思います。

私たちの画像は1年前の浅草でのライブの時のものです。
赤い方が、餡子を3倍くらい詰め込んだようにぱっつんぱっつんのまん丸顔なのがあまりに衝撃で
隅田川に身を投げたくなりますが、

オレンジの方、もとい、白い方がかわゆいのでいいです。

とってもお気に入りなので折に触れ使いたいと思います。
折に触れ、があんまりないですが。
いや、作ればいいんだ!

ということで、ちょうちんぱんちら~ズを今後ともよろしくね。
FBもやってるんだお。
ちょうちんぱんちら~ズで検索してみてね。
お友達になってくれると嬉しいわん♪
お見知りおきを!