父が他界いたしました。93歳、おめでたい方だと思ってます。

昭和4年5月19日に森下で産まれました。

ところが私から見ておじいさんになる父親は大変ぞろっぺな人で

 「早く学生服姿を見たいから」 と役所には3月19日

生まれと届けてしまいました。

一年早く学生生活がスタートしたので体力の差で

ずいぶん苦労したそうです。

生来、物覚えが早く、一度聞いただけで落語を憶えられたそうで、

小学生の時は方々でやって小遣い稼ぎしていたとか。

昭和16年12歳で東宝演芸場で小僧として入り、

元噺家で寄席のお茶子さんだった方に落語を教わり、

三代目の金馬師匠を紹介され噺家としてスタート、

当時は落語家の志望者はほとんどおらず重宝されました。

昭和20年、終戦を迎えると当時

 「進駐軍がやってくると男は全員タマを抜かれる」 というデマが流れ、

三代目の金馬師匠は 「この子も男のうちに二つ目にしてやろう」 

という親心で二つ目に昇進、若い頃はもっぱら腹話術で稼いでました。

落語のネタを相棒のター坊と掛け合い人気を得ました。

「ラジオで腹話術やったのは俺ぐらいなもんだろう!」と自慢してました。

いよいよ日本もテレビの時代を迎え、世田谷にあったNHKの実験センターから

愛宕山のNHKに試験電波が流されました。

このテレビ第一号も父が出演したそうでこれもよく自慢してました。

昭和30年からいよいよお笑い三人組がスタート。

まだまだ娯楽番組などない時代でしたから

爆発的にヒットし国民的なスターになりました。

毎週生放送ですからそりゃあ大変だったでしょう。

昭和33年真打昇進、お笑い三人組は10年続きました。

本当かどうかはわかりませんが陛下がお好きだったとか。

昭和39年名人三代目の金馬師匠が他界。三回忌に4代目襲名。

それ以来金馬を名乗っておりましたが、大病をしてから私に5代目を襲名しろ、

と言ってましたが私はずっと断ってました。

「一度襲名したからには墓場まで金馬の看板を担いでいかなきゃダメなんじゃないの」

とも言いましたし、何より私にそれだけの実力があるとは思えませんでしたし。

90歳になったある日 「お前、小金馬になるか?」 

いきなり聞かれて 「今さら小金馬にはならないよ」 と答えると

 「じゃあ金馬になれよ。俺はもう卒寿だから金馬も卒業するんだ」 とうとう寄り切られました。

襲名も無事終わり肩の荷が下りたのかもしれません。

兄の話では8月26日夜若干熱はあったものの

好きな酒を飲み、床について夜様子を見に行くと冷たくなっていたそうです。

大往生、こう死にたいものです。

生前は皆様に御贔屓いただき本当にありがとうございました。

今頃、極楽落語協会の新前座として入門したことと思います。

香盤は小三治師匠の下です。

仲良しだった圓歌師匠、柳朝師匠との再会を喜んでいるでしょう。

小言の名人と言われた三代目の金馬師匠には

生前一度も褒められたことはなかったそうですが

今頃は 「おい、龍典、よくやったな!」 褒められていると思います。

合掌。