論語読みの論語知らずという言葉が
あります。
書物の上のことばかりを理解するだけで
自らはそれを実践出来ぬ者をいう言葉です。
私たちクリスチャンも下手をすると
聖書読みの聖書知らずになる可能性大です。
昔からクリスチャンのそういう
教条主義的傾向は非難されてきましたが、
今尚、矯正されずにいるようです。
主体が神様にあれば問題ないのですが
聖書を読む時、読むという行為は
自分が行なっているがために
「読んでる内容を理解したい」が
「理解しよう」→「理解出来た」
→「理解出来た自分はすごい」
→「理解出来た自分は他の連中とは違う」
という具合に主体が神様から自分に
移動してしまって、自分でも知らないうちに
自分を特別な存在であるかのように
誤解してしまう事が多々あるのです。
聖書に出てくるパリサイ派の学者も
このトラップに引っかかってしまい
イエス様に白く塗った墓だとか偽善者と
非難されました。
この罠にひっかからないようにするには
どうしたらいいのでしょうか?
聖書には次のようなことばが
記録されています。
「心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。」
(箴言 3:5 新改訳)
自分がみことばを生きるのでなく
主に拠り頼みつつ共に歩む事が
大切なんですね。
あなたは自分の悟りに頼っていませんか?
いつも主と親しく交わり、
主と共に歩み続けましょう。
在主