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人は一人では生きて行けません。

必ず誰かの助けを借りなければなりません。

人間関係は持ちつ持たれつと言いますが、

実際には相手から得る事を望むばかりで

自分が相手のために何かを与えるという事を

避けてしまう事が多いようです。

相手からはより多く貰い、

自分は出来るだけ出さずに済ませたい。

残念ながらほとんどの人は無意識に

そう思ってしまうようです。

その根底には、相手より少しでも

優位に立ちたいという思いが

あるからでしょう。

アダムとエバが禁断の果実を食した後で

自分たちが裸である事を恥じて

フィジカルパーツを隠したその時以来、

人は相手にどう思われているかを

常に気にしながら暮らさざるを得なく

なりました。

その恐れから遠ざかるために

他人より優位に立てる何かを求め続ける

存在に人はなってしまいました。

ですから分かち合う事を勿体無く思い、

自分より持てる者に対しては

羨ましさを通り越して妬みの感情を持ち、

持たざる者は持たざる者同士で群れて

傷の舐め合いをするかと思えば

隙あらばその仲間をも奈落の底に

突き落とすデスマッチを繰り広げます。

なんとも愚かしい姿ではありますが、

残念なことに、そういう傾向は

クリスチャン同士でも起こり得るのです。

聖書の知識、祈りの時間、

奉仕の時間などで相手より自分が上だと

アピールしては悦に浸るという

愚かな事を信者のみならず牧師ですら

やってしまう事があるのです。

しかしこれらの妄動は教会を分裂させる

恐ろしいものです。

ですからクリスチャンは

他人と比較して優劣を決める

愚かな生き方は避けるべきでしょう。

人の目を気にするなら、

同じぐらいの恐れを覚えつつ

神様の目を気にしてみては如何でしょう。

イエス様も実を見れば

真贋が明らかになると仰いました。

私たちの行動や言動が実らせた果実は

秩序の乱れや邪悪な行いでしょうか?

それとも純真で素晴らしい果実でしょうか?

ヤコブも次のように教えています。

「ねたみや敵対心のあるところには、

秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いが

あるからです。しかし、上からの知恵は、

第一に純真であり、次に平和、寛容、

温順であり、また、あわれみと

良い実とに満ち、えこひいきがなく、

見せかけのないものです。」

(ヤコブ 3:16-17 新改訳)

他人の目を恐れず神様を畏れる者と

なれるように祈りましょう。

ラットレースのような不毛な信仰生活は

今日で終りにしましょう。