ギャンブルには、種目に関わらず共通する特性がある。
あのときアーせずにコーしていたら勝っていた、と悔しがる負け惜しみの念だ。
あのときアーせずにコーしていたら勝っていた、と悔しがる負け惜しみの念だ。

将棋ならば、相手は人間なので(Ponanzaを含む)、こっちか迷ったんだけどさぁ→そのときはこう差すつもりでした→えっ、ならばこれでどうだ→アイヤー×アイヤー、という感想戦ができる。
ここがギャンブルとゲームの境界線で、将棋が間違いなく健全な社会の一員である証拠だ。感想戦をしなければ、将棋の奥深い楽しみは理解できない。
まぁ、将棋のことはどうでもいい。競馬、だ。
競馬は、感想戦ができない。自分の行為にではなく、馬の競争結果に賭けているのだから、局後の検討をする相手がいない。
ひとりぼっちの回想は反省の花は咲かせても、学習の実を結ばない。
競馬場の後にグループで吞んでも、同じだ。そこにいるのは勝ったものも負けたものも同類で、対戦相手ではない。
ひとりぼっちの回想は反省の花は咲かせても、学習の実を結ばない。
競馬場の後にグループで吞んでも、同じだ。そこにいるのは勝ったものも負けたものも同類で、対戦相手ではない。
軽い財布は妄想を駆り立て、アーすれば当たっていて、そのままメーンレースに転がしていたら大口窓口だった、と現実と乖離したあり得ない結論に己を導くのが常だ。
アルコールからタラレバ軟膏を抽出し、オケラの傷にベタベタと塗り付けて、痛手の回復を図るのだ。
負けっぱなしは精神的に良くないから、何はともあれ元気になろうとするのは人間の本能だ。タラレバのボヤキは、成熟した大人ならではのバランス術であり、悪いというのでは決してない。念のため。
火曜日には、なぁにちょっとのツキの差で当たり損ねただけ、と思うくらいに回復する。
水曜日には、無心に日常生活に勤しむ。
木曜日の夜には週末が近いことを意識する。
金曜日は競馬新聞がスタンドに並ぶのを待って、ちょっとのツキの差を矯正するつもりになる
そして土・日は、いつもと同じ週末を繰り返すのだ。
水曜日には、無心に日常生活に勤しむ。
木曜日の夜には週末が近いことを意識する。
金曜日は競馬新聞がスタンドに並ぶのを待って、ちょっとのツキの差を矯正するつもりになる
そして土・日は、いつもと同じ週末を繰り返すのだ。
これは何とかならないか、といつも思う。
感想戦がないからギャンブルは学習できない。
経験則しか、bet技術の習熟は見込めない。
それではギャンブラーはいつまで経っても進歩がなく、
感想戦がないからギャンブルは学習できない。
経験則しか、bet技術の習熟は見込めない。
それではギャンブラーはいつまで経っても進歩がなく、
無駄の多い週末を過ごすのである。
何か方法はないものか。
何か方法はないものか。