【私が「大患難前携挙」を信じる理由】by Nathan E. Jones | 神さんの言うとおり

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救われてる?

今朝、Behold Israelのフェイスブックページでシェアされてた記事を

日本語に訳してみました。

どう言うワケか、フェイスブックにアップ出来ひんのやけど〜えーん

とりあえず・・・

 

 

【Why I Believe in a Pre-Tribulation Rapture】

The Lamb and The Lion Ministries、Nathan E. Jones氏著

記事のオリジナルはこちら。

 http://christinprophecy.org/…/why-i-believe-in-a-pre-tribu…/

 

【私が「大患難前携挙」を信じる理由】

 

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イエスが大患難の前に戻って来られる、11の理由

 

携挙の期待

 

私は度々、教会の大患難前携挙について説明を求められたり、

この説について、答弁したりしていますが、これに関する聖書の中の多くの箇所が、私の脳裏に浮かびます。

懐疑的な思考に対しては、マシンガンのようにそれを一つ一つ抜粋して提示する事も出来ますが、決して方程式のように包括的にそれを理解する事は出来ず、また私は特にその事に感謝しています。

 

そこで、今回は、「大患難前携挙説」について、私の頭を整理する為にこの記事を書いてみようと思います。

ぜひ、ご一緒にこの旅路にお付き合いください!

 

基本的原理

 

私が、教会の大患難前携挙を信じる事の根底にあるのは、次の教義です。

 

A ) 聖書は、神の御言葉である。

聖書と呼ばれる66の正典は、人間の為に、神の目的と計画を説明した、誤りのない、正確なものである。(第二テモテ3:16-17, 第二ペテロ1:20-21)

聖書が容易に成している事柄を、これほどに確実に、また信頼性をもって証明出来る文書は、他にない。

 

B ) 聖書は、文字どおり解釈されるべきである。

神は、言われた通りのことを意味され、意味された通りのことを言われる。

神は、その被造物が、彼の御心をそのまま知る事を望んでおられる。

神は、美しい描写や例えも愉しまれるが、その時はほとんどの場合、それを説明する文脈を加えておられる。

その為、聖書を解釈する為に、文書を霊的に見るのは正しいことではない。

とすると、それが何であれ、聖書の御言葉が、読み手の永遠に対する願望を元に霊的に解釈されているとすれば、多くの終末論が無効とされるべきである。

聖書は、そのままの意味で捉えよう。

 

C ) 教会とイスラエルは、別物である。

イスラエルは、教会ではなく、教会は、イスラエルではない。

キリストを信じる者は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、教会の一員となる。(ローマ1:16)

しかし、教会の一員が霊的イスラエルになる事はない。

イスラエルの民、イスラエル国家に対する神の約束は、キリストの花嫁である教会に対するものとは異なる。(次の項目をご覧ください)

 

D ) 千年王国は、文字どおり。

聖書は、将来のことを説明しており、文字どおり千年間である。

「千年」を表す「chilias」というギリシャ語は、黙示録20章の中で6回使われており、文字通り千年の期間を示しているのは、明らかである。

この期間の目的は、イエス・キリストが、地上の王国を支配するという、その約束の成就である。(創世記13:14-17; 15:5,18-21;  第二サムエル7:16-19; イザヤ10:21-22; 11:1-2; エレミヤ23:5-8; 30:22; 31:31-34; エゼキエル11:18-20; 34:24;336:24-28; ミカ7:19-20; ホセア3:5; ローマ11:26-29)

 

E ) 文字通り「7年の大患難」

次にやって来る期間は、神がその御怒りを悪しき世に下し、イスラエルをその地に戻し、彼らに、イエスが彼らのメシアであると認識させ、メシアを信じる残りの者のために、メシアが来て、彼らのために戦われる時期として定められている。(申命記4:26-31; イザヤ13:6-13; 17:4-11; エレミヤ 30:4-11; エゼキエル 20:33-38; ダニエル 9:27; 12:1; ゼカリヤ 14:1-4; マタイ 24:9-31)

この期間は、イスラエルと反キリストとの間で交わされる契約によって始まり、(ダニエル9:27) 大患難の期間は、7年。 様々な箇所で 「一週」(ダニエル9:27) や、「一時と二時と半時の間」(2年+1年+半年;黙示録12:14)、または、「1260日」(黙示録11:3) あるいは、「42ヶ月」(黙示録11:2;13:5)と表現されている。

 

F ) イエスは再び地上に戻って来られる。

聖書は、イエスが再び物理的に地上に戻って来られると伝えている。(ゼカリヤ14:1-21; マタイ. 24:29-31; マルコ 13:24-27; ルカ21:25-27; 黙示録 19)

イエスの来臨は、敵を打ち負かし、主の御座を据え、イスラエルを回復し、「鉄の杖をもって」支配し、主にあって打ち勝った者と共に権力を共有する為だ。(マタイ19:28; 25:31; 使徒の働き 1:3-6; Rev. 2:26-27; 3:21)

 

G ) 聖書は携挙について教えている。

第一テサロニケ4:17には、携挙と呼ばれる出来事について書かれている。

英語では「ラプチャー」ラテン語では「ラピオ」、ギリシャ語では「ハーパーゾ」これらは、「挙げられる」とか「連れ去られる」とか、「取り去られる」と言った意味がある。

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。第一テサロニケ4:17」

パウロは、この時代の信者を励ます為に、携挙について述べている。(第一テサロニケ4:18) 携挙に関する新約聖書の他の箇所は、次の通り。(ヨハネ14:1-4; 第一コリント 15:51-58; 第一テサロニケ 4:13-18)

 

 

これらが聖書に関して、またその解釈についての基本原理であり、これを元に、私が「教会の患難前携挙」を信じる11の理由を解説する。

 

 

1 ) 聖書は、携挙と再臨は別の出来事だと説明している。

 

聖書には、携挙は(エレミヤ 14:1-4; 第一コリント 15:51-58; 第一テサロニケ 4:13-18) に、再臨は (ゼカリヤ 14:1-21; マタイ 24:29-31; マルコ 13:24-27; ルカ 21:25-27; 黙示録 19)にあり、 聖句を比較して見れば、それぞれが2つの異なる出来事を描写していおり、別の出来事として書かれているのが分かる。

 

携挙 — 信者は、キリストと空中で会う

再臨 ー キリストは、地上の信者と会う為にオリーブ山に戻って来る

携挙 ー オリーブ山は変わらない

再臨 ー オリーブ山は分かれ、エルサレムの東側に谷が出来る

携挙 ー 生きている信者は、栄光の体を与えられる

再臨 ー 生きている信者は、同じ体のまま

携挙 ー 信者は、天国に行く

再臨 ー 栄光を受けた信者は、天国から来て、地上の信者は地上に留まる

携挙 ー 世は、そのまま裁かれず罪の中に生きている

再臨 ー 世は裁かれ、義が創設される

携挙 ー 教会の、御怒りからの贖いを描き

再臨 ー 御怒りを耐え抜いた信者の贖いを描く

携挙 ー 罪がそれに先立つことはない

再臨 ー 多くの罪がそれに先立つ

携挙 ー 新約聖書でのみ明らかにされている

再臨 ー 旧約、新約、両方で明らかにされている

携挙 ー 救われている者にだけ起こり

再臨 ー 救われている者にも、救われていない者にも、両方に起こる

携挙 ー サタンは自由のまま

再臨 ー サタンは底知れぬ所に投げ落とされる

 

このように、携挙と再臨が、異なる時期に起こる、異なる出来事である事は、明らかである。

これによって、「大患難後携挙説」は、除外となる。

 

 

2 ) 携挙は、警告なしに、いつでも起こり得ると記述されている。

 

イエスは、マタイ24:42,44で、次のように述べている。

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。… だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

主がいつ来られるのか、信者には分からないだけでなく、御父は、御子にさえ何時戻るのかを、はっきりと示しておられないようだ。 マタイ24:36でイエスが言われたように、「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」他に、イエスが思いがけない時に来られることを示している箇所は、次の通り。(マタイ 24:36,42,44,50; 25:13; 第一テサロニケ 4:18; テトス 2:13; 第一ヨハネ 2:28; 3:2-3) 

 

一方、再臨は、反キリストの起こり (黙示録12:13-17; ゼカリヤ 13:7-9)や、イスラエルとの契約 (ダニエル9:27)、ユダヤ神殿の再建(またい24:15; 第二テサロニケ 2:3-4; 黙示録11:1-2)、そして世界の人口のほとんどが滅びる災いや、裁き、迫害(黙示録6−18)等、多くの出来事の後に起こる。

黙示録の中では、これらの出来事が、7年の大患難の間に起こる事として伝えられており、そのことから、黙示録が再臨に先駆けて起こる事が分かる。

 

携挙は、いつでも起こり得、また警告無しに起こる事、再臨は、非常に多くの前兆の後に起こることから、携挙と再臨は、別の出来事でなければならない。

携挙は、7年の前兆の前に起こるはずで、クリスチャンは反キリストの到来のような前兆でなく、主の来られるのを待ち望むように、と言われている。

一旦、前兆が始まれば、キリストの再臨に向けて、7年のカウントダウンが始まるのだ。

 

差し迫るイエスの来臨は、患難の最中、または患難の終わりに携挙が起こるとする、あらゆる説を退ける。

 

3 ) 「携挙」と、「引き止めるものが取り除かれる」のは、同時に起こる。

 

第二テサロニケで、テサロニケの教会は、すでに「主の日」(大患難)に突入し、自分達は何らかの形で携挙を逃してしまったという、偽教義の為に恐れていた。

そこで、使徒パウロは、引き止めるものが取り去られて、不法の人が現れるまで、反キリストは明らかにされない、と保証しているのだ。

 

反キリストの現れと、彼とイスラエルとの間での、和平協議の成立による7年の大患難の開始(ダニエル9:27) が同時に起こることから、引き止めるものは、大患難の前に取り去られなければならない。

聖霊は、常に救いをもたらす働きをする。(ヨハネ16:8-11; 第一ヨハネ5:7)  だとすれば、大患難の間、引き止めるものである教会は、取り去られなくてはならない。

従って、携挙、教会の取り去られるのと、7年の患難の開始は同時でなければならない。

 

4 ) 大患難は、イスラエルの贖いの為

 

エレミヤ30:7は、大患難のことを次のように形容している。

「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。エレミヤ30:7」

 

マタイの福音書では、主な聴衆はユダヤ人で、イエスは彼のユダヤ人信者達に、大患難の最中の暮らしが、どのようなものであるかを説明している。

また、黙示録12章では、子を産む女が大患難の最中、迫害を逃れなければならないと描写している。文脈から、その女はイスラエルである。そして、再び、ハルマゲドンの戦いは、世界対イスラエルだ。ユダヤ人の3分の2がこの戦いで殺される。これらの文章と、他の箇所から、大患難は、ユダヤ人の贖いを目的としている事が分かる。

 

なぜ、ユダヤ人は大患難の間迫害の対象になるのか?

第一に、サタンは世に聖書とメシアを与えた、ユダヤ人を憎んでおり、同時に神の約束を破棄したいと思っているからだ。(基本的原理4番参照)

第二に、ユダヤ人は、ついには『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』と、メシアを呼び求めるほどに、絶望的に落とされなければならない。(マタイ 23:39; ルカ 13:35)

大患難は、イスラエルの贖いのために用いられ、同時にその結果として悪への罰となる。教会は、この筋書きには当てはまらず、大患難の目的から外れており、大患難が始まる前に、取り除かれ~挙げられ~なければならない。

 

5 ) 大患難は、教会のためではない。

 

大患難は、不信仰な世に対する神の御怒りであり、キリストのよみがえりによって救われ携挙される者(教会と呼ばれる者)の為ではない。もちろん、信者達は人類の歴史を通して苦しんで来た。しかし、洪水のように、「主の日」と呼ばれる、神の御怒りの特別な時があり、クリスチャンの苦難と、大患難/主の日は、別である。

 

フィラデルフィアの教会に代表される、教会時代の真のキリストの信者は、黙示録3:10の通り、約束されている。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。黙示録3:10」

 

 

パウロは、第一テサロニケ1:10で、次のように書いている。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように… 第一テサロニケ1:10」

 

彼はまた、第一テサロニケ5:9でも、次のように伝えている。「 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。第一テサロニケ5:9」

 

ローマ5:9には、こうある。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。ローマ5:9」

 

エペソ人への手紙5:6 「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」

 

コロサイ人への手紙3:4 「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」

 

聖書は、教会は神の御怒りにはあわないと、何度も何度も繰り返している。

 

 

6 ) 神の御怒りは、7年間の大患難全部を要する。

 

携挙が大患難の中間で起こるとする考え方は、携挙が「終わりのラッパ」に起こると書かれた、第一コリント15:52が元になっている。そして、大患難中間携挙説は、このラッパが黙示録11章の、大患難の中間期に鳴らされる、7つのラッパの最後のものだと表明している。何故、聖書の中に114箇所ある、ラッパに関する記述の中で、この2つを同一とするのを健全な聖書の教えとするのか? 文脈を見れば、第一コリント15章は信者の為に、そして黙示録8、9、11章では、不信者の為に鳴らされているのは明らかだ。従って、黙示録のラッパは、教会とは一切関わりがない。

 

「御怒り前携挙説」支持者は、大患難の4分の3、5年の後、またはその直後に、最大で4回のキリストの来臨に伴って、携挙が起こると信じている。

 

David Reagan博士の「神の御怒り前携挙」によれば、

 

「この説の支持者は、封印の裁きが、人間とサタンの怒りであり、大患難前半を通して続き、そして後半に突入し、大患難の4分の3の時点、もしくはその直後まで及ぶと信じている。彼らは、ラッパの裁きは、大患難の最後の4分の1に起こるとし、鉢の裁きは、ダニエルの70週目の終わりに続いて、初めの30日間で起こるとしている。」

 

しかし、大患難の初めに起こる、黙示録6章でもたらされる、それぞれの封印の裁きは、イエスご自身が封印を切られるのではなかったか?また、裁きをもたらすラッパを鳴らす、7人の御使いは、神の御座から渡されたのではなかったか? (黙示録8:2) そして、黙示録15:1には、鉢の裁きは、大患難の最後で、神の激しい怒りはここに窮まると書いている。御怒りの初めではない。

 

これらの裁きが、大患難の初めに、イエスによって始められる事から、大患難全体が神の御怒りであり、教会はそれの対象ではない。

 

 

 

7 ) 旧約聖書と黙示録で、大患難には教会が含まれていない。

 

大患難がフォーカスしているのは、 洪水のように地に注がれる神の御怒り(イザヤ 24:22; ゼパニヤ 3:8; 第一テサロニケ5:3; 第二テサロニケ 2:12) と、ユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れる事 (マタイ 23:39; ルカ 13:35)であり、それは旧約聖書と、黙示録で不信者とユダヤ人に示されている。聖書の中で、大患難/主の日に関する記述に、教会は一切出て来ない。

 

旧約聖書の預言者達には、教会という概念自体が謎であった。彼らは、イスラエル国家にフォーカスしていたのだ。マタイ24章中でイエスが伝えているように、マタイの福音書は、ユダヤ人に向けて書かれている。黙示録2章、3章は、教会時代について書かれているが、黙示録6章ー18章の大患難/主の日に、教会は一切出て来ない。19章で、教会は文章に登場し、見られるようになるが、苦しむのではなく、キリストと共に子羊の婚宴を祝い、イエスの地上への来臨に備えをしている。

 

 

8 ) 教会は、大患難の間 他の場所で忙しくしている。

 

7年間の大患難が起こっている間、教会は3つの事に忙しくしていると聖書にはある。この3つの内のどれ1つとして、世が滅ぼされ苦しむ事と関連しているものはない。

 

1つ目は、携挙された教会は、神の裁きに参加している。義の裁き。この裁きは、永遠の行き先を決めるものではなく、報いの度合いを決めるものである。 (第二コリント5:10; 黙示録 19:6-9)

 

2つ目は、子羊の婚宴。この祝宴は、キリストの花嫁~教会~と、その救い主との霊的な結婚だ。黙示録19:7-9には、この素晴らしい祝宴について書かれている。

「『私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』

御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』」と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。黙示録19:7-9」

 

子羊の婚宴に続く3つ目は、王の王が、大患難を締めくくるハルマゲドンの戦いに行くのに従う為の、教会の準備だ。これが、イエス・キリストの再臨だ。(ゼカリヤ14:1-21; マタイ 24:29-31; マルコ 13:24-27; ルカ 21:25-27; 黙示録 19:11-21) 黙示録19:14では、教会が「まっ白な、きよい麻布を着て」と書かれており、これは1つ目の出来事~義の裁き~の時に与えられるものだ。教会と、天の軍勢は、王の王の地上への再臨に従う事にフォーカスしているが、戦うのはイエスご自身であり、ただ、言葉によってエルサレムに攻め込む諸国が打ち負かされるのだ。

 

9 ) ひつじが、やぎと分けられる。

 

大患難後携挙説の支持者が信じているように、もし教会が、大患難の終わりに携挙され、栄光の体を与えられるなら、そして直ちに キリストと共に再臨の為Uターンするなら、マタイ25章に書かれている、ひつじとやぎとを分ける裁きの時に居る、キリストの信者は誰なのか? 地上に残されている人は、(やぎと呼ばれる)不信者だけだ。神が「ひつじ」の項目に加える信者~ひつじ~は、一人も居ない。

 

栄光の体を与えられた者は、御使いのようになる為、結婚もしなければ、子を産むこともない。(マタイ22:30; マルコ 12:25) ならば、信者であり、栄光の体ではない、残された人間が、ひつじに分類されるはずで、キリストが統治する千年王国の間も引き続き、子を産み続けるのだ。(エゼキエル 43:13-27; イザヤ 19:21; イザヤ 65:20-22; 黙示録 20:7-10) つまりこれは、大患難の間、それでいて携挙の後に、人がキリストに立ち返り、千年王国に繁殖する事を意味している。

 

10 ) 聖書には、神は彼の御怒りから正しい人を救うことが示されている。

 

クリスチャンであるという事は、人間による試練や苦難に耐える事を意味している。(ヨハネ16:33; ピリピ 1:27; 第一テサロニケ 3:3; 第一ぺてろ 4:12-13) しかし、聖書には、神に信頼したものが、神の御怒りの対象外になる例がたくさんある。ノアと彼の家族は、神の御怒りの裁きと地のきよめに使われた、水の洪水から取り除かれた。ロトと、彼の妻と、二人の娘は、神がソドムとゴモラの町を火と硫黄で焼き尽くす前に、そこから出された。ラハブの家族は、ヨシュアの軍勢がエリコに攻め込んだ時、取り分けられた。

 

イスラエルがエジプトの災いから守られたように、信者が大患難時代、奇跡的に守られる事は有り得るか? ある。例えば、黙示録7章と14章の、14万4千人のユダヤ人伝道師達は、神に守られる。しかし、大患難時代に殺される信者の数は、膨大である。彼らが特別な加護の下にないのは確実だ。(黙示録7:9-17; 20:4)

 

11 ) 大患難前携挙説は、何ら新しいものではない。

 

大患難前携挙説は、代案として考えるには「新し過ぎる」と主張する人がいる。批評家達は、最近の大患難前携挙説の起源をジョン・ネルスン・ダービー(1800-1882年) として、彼に評価を与えているが、この査定は、歴史的に正しいのか? それは、違う。

 

初期の教会の父達、バルナバ(約100-105年)や、パピア(約60年−130年)

ジャスティン・マーター (約110-195年)、 エイレナイオス (約20-202年)、テルトゥリアヌス (145-220年)、ヒッポリュトス (約185-236年)、 キプリアン (200-250年)、 そして、 ラクタンティウス (260-330年) が、大患難前携挙説の重要な主張である、”差し迫るキリストの来臨”について書いている。

 

聖書の真理は、御言葉によって決定されるのであって、歴史上でどの教義が先駆けたかではない。アウグスティヌスが聖書を霊的に解釈し始めた時、教会を文字通り解釈せず、千年王国前、大患難前携挙を消し去り、無千年王国の考えが、ルネッサンス時代まで教会を占拠した。しかし、ニシビスのエフレム (306-373年)や、 Abbot Ceolfridの「ラテン コデックス・アミアティヌス (約 690-716年)、そして ブラザー・ドルシーノ のような、中世の著者達は、携挙を再臨と区別する考えを記している。

 

寓話的な解釈の連鎖が、1400年や、1500年代の宗教改革に始まった時、ジョセフ・ミード(1586-1638年)や、 インクリース・マザー (1639-1723年)、 Peter Jurieu (1687年)、 フィリップ・ドッドリッジ (1738年)、ジョン・ギル (1748年)、 ジェームス・マックナイト(1763年)、トーマス・スコット (1792年) 、 モーガン・エドワーズ (1722-1795年) 等の著者は皆、携挙が再臨とは別に起こると書いている。最も近年の教会でも、John Darbyの前任者であった、William Witherby(1818年)のような人物が、その説を支持して書いている。大患難前携挙説は、確かに聖書にかなっているだけでなく、教会史を通して支持されて来た。

 

終わりに

 

私は何故、教会の大患難前携挙説を信じるのか、を探求する旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。これが皆さんの終末論に対する考えを裏付けるものとなるか、もしくは考え直すものとなれば幸いです。それでも、終末論に関する個人の考え方は救いの教義には全く無関係である事を、どうぞ忘れないでください。喜ぶべきなのは、いつの日か私たちが救世主、イエス・キリストといつまでも永遠に過ごす為に、天に上げられるという事です。

 

この素晴らしい記事は、The Lamb and The Lion Ministriesの Nathan E. Jones氏によって書かれ、皆さんとお分かちする為に許可を頂きました。

記事のオリジナルはこちら。

 http://christinprophecy.org/…/why-i-believe-in-a-pre-tribu…/