第一コリント9:25-27
競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、
空を打つような拳闘もしません。
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。
それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
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私もちゃんと聖書を知る前は、罪ってなんのこっちゃよぉ分からんかったけど
聖書を読めばちゃーんと書いてある。
罪って言うのは、神さんにそむく事。
で、神さんにそむくって言うのは、聖書の中に書いてある事を信じひん事やったり 聖書を否定する事。
つまり、聖書にアカンって書いてある事をするのも、結局は信じてない証拠なんやね。
自分の都合のイイ部分だけを拾い集めて、
神さんは愛やとか、全部の罪は赦されたとか、
口では神さん神さん言いながら、
別の部分では今の時代みんなしてる事やとか
こんなん普通やとか、
聖書で神さんがはっきりとアカンって言うてる事を知っていながら
自分の欲望を優先する事が、神さんを信じてる事になるやろうか?
って言うても、
罪、罪って言うて、自分が偉くなったみたいに勘違いして
裁いてるわけじゃないねん。
ただ、前に紹介したYouTubeの一つでも
ある人が言うてたけど、
神は愛やと教えるクリスチャンにとって、
何かを憎むって言う感情は間違ってるんちゃうんか?
って、よぉ言われる。
Jesusが十字架にかかった事で、
わたし達の罪は、過去も現在も未来も全部許されてるんやから
Jesusを信じた時点で、わたし達は罪人じゃないねん。
とか言われるって。
でも、その人が言うてた。
罪って言うのは、人を神さんからどんどん遠ざけて、
最終的には、その人を破滅に導く。
だから、自分は罪を憎むんや。
癌が人を死に至らしめる病気やって事を知ってるから
大事な人の体に癌を見つけた時は、その癌を心底憎む。
子どもが大好きやから、
子どもの人生そのものを奪う 中絶を憎むんやって。
大事やと思うからこそ余計に、
その人がやってる事が許されへん事がある。
Jesusが十字架にかかって 自分を清めてくれたのに
なんでアンタが裁くんやって言う。
でも、信じた時点で許されるから
何をしてもイイんと違う。
人間は元々罪深いように出来てるねん。
そぅ言うアンタも、人を責めれる立場じゃないやん。
って。
そぉや。
何回でも何回でも 同じ間違いを繰り返してしまう。
ほんで、毎日毎日神さんにごめんなさいって謝る。
罪に大きいも小さいもない。
だから、私も一緒。
十字架にかかって死んだJesusを
さらにもう1回十字架にかけてる。
それでも、神さんの事を大事に思うから、
神さんが与えた人達を大事に思うから、
その関係を全部破壊してしまう罪は許されへん。