日本の歴史を振り返れば、東日本と西日本の争いが多いと感じる。大体西日本が優位に立つが、時々東日本が優位になることがある。武家政権が確立したのが、鎌倉に政権を置いた源頼朝であった。しかし源氏政権は長続きはしなかった。後は執権北条氏が続いた。北条氏は伊豆の小豪族だった。完全に東日本政権であった。平将門が京都の政権に反旗を挙げたが鎮圧されてしまった。京都の政権から見たら反逆者であり、逆賊である。しかし人気があるのは東日本の代表者であったのだろうか。

 鎌倉政権の後の東日本政権は徳川家康が開いた江戸幕府である。約260年間続いた長期政権であった。平安時代は約400年であるが、評価はまだ定まっていない。NHKでも「平安時代は本当に平安だったか」をやっていた。室町時代は前半には南北朝時代があり、後半には戦国時代に突入している。しかし最近は「戦国時代は不幸だったか」という議論が起きているという。幸不幸は主観的なものだから、あまり論じても無意味なところがある。戦国時代も自由だったという意見もある。それまでの時代と違って自分の意志で自由に動き回れたという。豊臣秀吉の青少年期はまさに自由に動き回ったのではなかろうか。斎藤道三や明智光秀も似たところがあったのかもしれない。戦争が打ち続くと土地に根を生やして生きていく農民は生きにくかったかもしれない。「兵農分離」がそれほど進んでいなかった頃は、農民として一生暮らすより、一旗揚げて侍になりたいと思う若者も多かったのであろう。第一次産業以外の産業が増えたのではなかろうか。商工業の発達が促された面もあったのであろう。

 日本という国家が確立したのはいったいいつになるのであろう。近代国家が成立したのは明治になるのであろうが、古代において「我が国」とか、「我が国土」とか、「我が民」とかという意識はどこからだったのであろうか。海に囲まれていたので、「大八島」というぐらいだから、本州、九州、四国の周辺の島々ぐらいを「我がもの」と思っていたのかもしれない。おそらく「天皇家の誕生」と絡んでいると思う。天智天皇辺りから「我が国」という意識が出て来たのかもしれない。奈良時代には「鎮護国家」という意識が出ているので、7世紀がターニングポイントになるのかな。海の向こうの外敵という意識が、「我が国」という意識も生み出したのかもしれない。約1500年の時間が経過しているわけである。この頃は東日本はあまり「我が国」という感じがしないのかもしれない。東国は「異国感」が強かったのであろう。大和政権を脅かすような存在でなかったのは、大同団結していたわけではなかったせいであろう。これも妄想ではあるが、小さな村落共同体みたいなものが点在していたのではなかろうか。よく言えば「自立した村であり、自給自足の村」であったのであろう。平和な村が広がる小さな集団であったのであろう。ヨーロッパに生息していたネアンデルタール人が絶滅したのは、小さな家族だけの集団で、ホモ・サピエンスに食べ物を奪われたせいであるという話しである。争って奪われたのではなく、先に食べ物を確保され続けて、とうとう食べるものが無くなってしまったという説が有力視されている。20人足らずのネアンデルタール人の集団は、数百人の集団であるホモ・サピエンスに戦いを挑むことは出来なかったようである。「社会性」というものもあったかもしれない。しかし現在のホモ・サピエンスのDNAにネアンデルタール人のDNAが一部残されているそうである。不思議なことにヨーロッパに色濃く残っているのではなく、アジアにもアメリカ大陸の人々にも残されているそうである。むしろアフリカの人々に少ないそうである。ずっとアフリカに残り続けた集団がいるようである。色眼鏡抜きでDNAの研究が進むと面白い結果が出るかもしれない。

 海を渡ってきた弥生人は、陸路を進まず、瀬戸内海を通って、近畿地方にたどり着いたのであろう。そこで大和政権を樹立した。今度は瀬戸内海を通って九州の部族を平定した。南九州や南四国や山陰地方は後回しになったのであろう。戦争を仕掛けてこないならば、放置していても困らないからである。何百年かかったのであろうか。何十年だったかもしれない。

 最近の研究では、後醍醐天皇は無理難題を武士たちに押し付けていたそうである。側近の者たちを重用して、恩賞にも偏りがあったようである。後鳥羽上皇も、国文科出身の私は歴代天皇の中でも有数の優れた天皇と教えられたが、政治家として見た場合は、武士たちから見たらとんでもない存在だったということらしい。「天皇親政」というと、有難い言葉のように思うが、天皇が直接政治に絡むと不都合なことが頻発するようだ。明治維新も「王政復古の大号令」と言って、旧幕府勢力を一掃したが、これも「天皇の政治利用」と言われても仕方がない一面がある。「薩長土肥」と言われたが、尊王思想が一番薄かったのは「薩摩」ではなかっただろうか。最後の将軍徳川慶喜公は尊王思想の熱い水戸徳川家の出身である。両親も徳川家と天皇家の出身である。時代のめぐりあわせであろうか。最後の将軍になったのは。

 昭和天皇は立憲君主たらんとしておられたと思うが、やはり天皇が君主であると、政治利用しようとする輩が出てくる。約1500年の天皇の権威は権力には馴染まない。ある意味「象徴天皇制」は実によかったかもしれない。元来持っている天皇の権威に権力が加わったら、「絶対君主制」にならざるをえない。それは危険である。

 私は政権交代は「禅譲」が一番いいと思う。「有徳の聖天子から有徳の君子へ」が理想だと思うが、それは無理だと思っている。第一誰が「有徳の君子」と認定するのか。国民か、それとも有徳の聖天子か。昔も「禅譲」が難しいと思っていたのであろう。出した結論が「世襲」である。「革命」ではない。「革命」だと多くの人命が失われる。前時代の人々を抹殺するのだから大変なことである。「革命」を良しとすると、いくら殺しても良いということになる。スターリンも毛沢東も躊躇なく抹殺している。ヨーロッパでも多くの人々が殺されているが、「異教徒」は人間ではないのだからいくら殺しても良心の呵責は起こらない。黒人や有色人種は「人間」ではないのだから、殺してもいいのである。昔は近くで刀剣などの武器によって殺していたから、限界があった。近代になって、遠距離から鉄砲などで殺すから少し平気になってしまった。大量虐殺の下地が形成されるわけである。現代の戦争では、目の前の敵ではなく、遠くにいる見えない敵を殺すのである。いくらでも殺せるようになった。冷静に考えてみればわかることである。見えない敵も同じ人間である。ルールに従って戦争をするのではない。ルールに従えと言っても無駄である。ルールに従って負けたら大変なことになる。

 ウクライナ戦争でも、ガザ地区での戦争でも、今被害に遭っている人間の姿を、映像で映し出している。恐らくかなり大量虐殺の歯止めになっているであろう。ガザの被害は、昔の大虐殺から見れば、少ないものである。しかし昔の大虐殺より、身近に感じられている。画面越しに映し出される光景は悲惨そのものである。知らないところで起きているわけでもない。しかしそれでも停戦にはまだほど遠い。必要なのは冷静な対応なのか。感情的な要求なのか。

 戦争が始まってからの停戦や休戦が難しいことはよくわかった。だったら戦争が起きないようにしたらどうすればいいのか。中学2年生の私は「日本が世界統一をすれば良い」と考えた。戦争のない、差別も少ない日本が世界統一したら、かなり幸せな世界になるのではなかろうかと考えた。前年に「東京五輪」が開催されて、世界各国が入場行進をしている姿を見て、やはり「平和」が大事だと思った。平和を担保するには、「原水爆の無力化」である。その技術を日本が開発できないかと考えた。

 「君臨すれども統治せず」は大英帝国のヴィクトリア女王の治世下のものだったと思うが、最も具現化しているのは「日本の天皇制」ではないかと考えている。ユーラシア大陸の東の端と西の端で考えられているのは面白い。大陸や半島では長年続いている虐殺の歴史があるのであろう。水に流せと言っても水に流せない事情もあるのであろう。しかしどこかで終止符を打たないと、戦争のない平和な世界は訪れてこない。日本はもっとアピールしていかないといけない。言わないでもいつかわかってくれるというのも、妄想の類であろう。現実問題としても、喧嘩を止めるのは弱い奴ではない。学校だったら優等生が止められるが、校外だったらやはり強い奴でないと止められない。日本は優等生で実力もあるという国になろう。