先日「ポリアモリーとモノガミーは、利害が対立するか否か?」というご質問をいただきました(モノガミーというのは、お付き合いは1対1でするもの、という考え方にもとづいたライフスタイルのことを言います)。
今回はこのことを含め、ポリアモリーとモノガミーの「住み分け」問題について、考えてみたいと思います。
「ポリアモリーはモノガミーに”手を出す”べきではない?」のなかでも触れましたが、ポリアモリーとモノガミーはお付き合いをするべきではない、住み分けたほうがよい、という意見はポリアモリー当事者からもモノガミー当事者からもときおり聞かれます。
なぜならポリアモリーとモノガミーとは利害が対立するから、ポリアモリーとモノガミーがお付き合いするとお互いに傷つき苦しむことになるから……という考えがその背後にはあるようです。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
まず、ポリアモラスとモノガマスは相容れない性質だ、と私は考えていません。
二項対立というよりもむしろ、グラデーションと幅をもったスペクトラムや、あるいは時期によって変化する性質として捉えたほうが分かりやすいのでは、と思っています。
ポリアモラスな時期とモノガマスな時期が入れ替わる人もいるし、あるいはポリアモラスであっても嫉妬心や独占欲があるのかないのか、同時に好きになる人数が2人なのか10人か、そういう性質の違いが、ポリアモリーを実践するにあたってどのようなライフスタイルを選ぶのかにも関わってきます。
ポリアモリー当事者であっても、ポリアモリー当事者としかお付き合いできない人、モノガミー当事者ともお付き合いできる人がいるように、モノガミー当事者にも、ポリアモリー当事者とお付き合いできる人はいます。
一方、ポリアモリー同士であっても、モノガミー同士であっても、相手の恋愛スタイルを受け入れられず自分のスタイルを押し付けようとしてしまえば、そこには「利害の対立」が生まれます。
つまり「(すべての)ポリアモリー/モノガミーは利害が対立する」と一括りにする話ではなく、「ポリアモリーとモノガミーのなかには、利害が対立する人もしない人もいる」と個別に語られる問題ではないでしょうか。
そのうえで、電車の女性専用車両に乗るか乗らないかが女性各個人の自由であるのと同じように、ポリアモリー同士・モノガミー同士で集まりたい人たちには安心して集まれる場があり、その場に居るかどうかは、他人から強制されることなく本人の自由で決めてよい。
このような状況を必要とする人たちは必ずいると思いますし、その人たちのためにこのような「住み分け」がなされた場があることは大切だと思います。
逆に、ポリアモリーであれモノガミーであれ、非当事者から無理やり当事者だけのコミュニティに押し込められるような状況は、ハンセン病患者の強制的な隔離や、ナチスによるユダヤ人の隔離と同じものになってしまうでしょう。
このような状況を考える前提として、もちろん、何がポリアモリーか・何がポリアモリーでないか、という議論は重要だと考えています。
どんなに真剣な情熱がそこにあったとしても「複数の人を好きになったらすなわちポリアモリー」そして「ポリアモリーと名乗れば何をしてもいい」というわけではありません。
それでは、ポリアモリーと浮気の区別ができなくなってしまいます。
「複数の人を同時に好きになる」という性質をもっているだけでは、ポリアモリーとは呼べないと思います。
「複数の人を同時に好きになる」性質の表現として、ポリアモリーというライフスタイルをとる人もいれば、浮気というライフスタイルをとる人もいるという違いは、明確にしておく必要があると考えています。
ポリアモリーについては「すべての関係者の合意の上で、複数の恋愛関係を営むこと」という最小限の定義があればよいのではないでしょうか。
この定義があれば、ポリアモリーと浮気を区別することは可能です。
LGBTの議論とポリアモリーの議論には共通点も多いのですが、ここは明らかに両者が異なっているポイントで、LGBTは「どのような性質をもっているか」が定義の要であるのに対し、ポリアモリーについては「どのような実践をしているか」が定義の要だと私は理解しています。
そして、ポリアモリー当事者自身による当事者限定コミュニティをつくる際に大切だと思う点があります。
たとえ同じポリアモリー当事者という自認をもった者同士であっても、最終的には「自分は自分、他人は他人」であって、自分と完全に同じ価値観やライフスタイルの他人は存在しない、ということです。
血を分けた親子であっても、長年連れ添った夫婦であっても、別個の人格をもった「他人」同士であることに変わりはありません。
「自分とまったく同じ誰か」を探すために当事者のコミュニティをつくるのであれば、それは存在しない青い鳥を探し続ける終わりのない旅になってしまいます。
その青い鳥が見つからないことで、もしも自分と違う他人を責めて自分と同じにしようとしたり、他人と同じでない自分を許せなくなってしまえば、本末転倒な生きづらさを感じてしまうかも知れません。
そのようなある種の「身内争い」は、LGBTの世界のなかでもときおり見られるものです。
「真のレズビアンとは」を言い争ったり「トランスジェンダーならばかくあるべき」といったような論争は、性の多様性とは逆の方向に向かうものではないかと思います。
どのような性自認、性指向、性嗜好であっても、好きになる人数が一人であっても二人であっても、他人を自分の都合で傷つけるのでない限り、定義に囚われず各人にとって心地よいあり方でいることが重要といえるのではないでしょうか。