最近はインターネットなどでポリアモリーに関する情報にふれることも多いのですが、そんな中でときどき目にする意見があります。

「ポリアモリー当事者はポリアモリー当事者同士だけで付き合うべき」「ポリアモラスな人とモノガマスな人は付き合うべきではない」というものです。

今回はこの意見について、私なりの考えをまとめてみたいと思います。
 

初めに、言葉の説明をしましょう。

モノガマスというのは、1度にひとりを好きになる性質のこと。

そして、1度にひとりとお付き合いをするライフスタイルをモノガミーといいます。

私がインターネットで見かけているのは、このようなモノガマスな人と、1度に複数人を好きになる性質をもったポリアモラスな人とがお付き合いをすると、モノガマスな側が苦しむことになる、だから、ポリアモラスな人はモノガマスな人を口説いたりアプローチしたりするべきではない……という主張のようです。

まず「ポリアモラスな人はモノガマスな人に恋愛的アプローチをするべきではない」が主張される時には、同時に「モノガマスな人はポリアモラスな人に恋愛的アプローチをするべきではない」という主張もされることになると思います。

そしてそのためには前提として、モノガミー当事者であると決め付けられることがなく、ポリアモリー当事者であることが非難されることのない世界、つまりポリアモリーとモノガミーとが倫理的な優劣なく平等に認知されている世界が必要ではないでしょうか。
 

「そもそもポリアモリー当事者であることをオープンにしないと、モノガミー当事者だと思われる」「けれどポリアモリー当事者であることをオープンにすると非難される」という状況で「ポリアモラスな人はモノガマスな人に恋愛的アプローチをしない」というのは、ポリアモラスな側だけに対する制限になってしまいかねません。

これをLGBTの問題になぞらえると「同性愛者であることを言わないと、異性愛者であると思われ、異性から望まない恋愛的アプローチをされる」「同性愛者であることを言うと、差別やヘイトに晒される」という状況が起こりえる、ということです。

この問題の根本には、あるひとつの価値観だけが世間に認知されている、あるいは正しいとされている、ということがあると思います。

「外国人である」「高齢者である」などの見て分かる違いならまだしも、その人の価値観や性質を外から見てとるのは難しいものです。

ポリアモリー当事者であれLGBTであれ「みずから主張しないとその存在を認知されず『いない』ことにされてしまうけれども、主張することによって別の不利益を被る」という悩ましさがそこにはあるのです。

だからこそ「他人を見た目で判断しない」という考え方が必要になる……のですが、そうは言っても、自分のなかに根付いている先入観はそもそも自覚することすら簡単ではありません。

リアルな意味で「多様性を尊重する」のがいかに困難か、この記事を書きながらもひしひしと感じます。

理想論を語るのは簡単なのですが。
 

とはいえ、私はポリアモリーとモノガミーとの間の不均衡に対するアファーマティブ・アクション(格差や不利益を是正するための積極的な優遇措置)が必要だと言いたいのではありません。

そもそも「ポリアモリーとモノガミーの利害は対立する」とひとくくりに捉えられるものでしょうか。

ポリアモリーにもモノガミーにも、本当にいろいろな人がいます。

嫉妬する人・しない人、独占欲のある人・ない人、恋に落ちやすい人・落ちにくい人……そういう人たちは必ずしも相反する二項対立をつくるとは限らないし、人それぞれにグラデーションの濃淡もあります。

それに、モノガミーからポリアモリーへとその価値観やライフスタイルが変わってゆく人だっているものです。

そもそも、ポリアモラスな性質とモノガマスな性質の人間とは相容れない、という考え方の背後にある「異なる価値観や性質をもった人間はお付き合いをすることができない」という前提はどこから来るのでしょうか。

ポリアモリーであってもモノガミーであっても、恋人としてお付き合いをするということは、自分が相手の価値観に100%合わせることではないし、逆に相手を完全に自分色に染めることでもありません。

恋人関係に限らず、自分と異なる他人とのあいだに築かれるあらゆる人間関係には、お互いの価値観の違いを知ってすりあわせてゆくコミュニケーションが欠かせないと思います。